第214号「すりすり、すり足」

 日本古来の多くの武道は、すり足という歩み方が基本です。すり足といっても、ずるずると足を引きずって歩く事ではありません。要するに、歩くときに踵を高く上げて大股で歩かない歩き方という事です。

 剣道の技も基本的にはすり足ですが、実は基本的な動作が出来るようになると、今度は後足で蹴って踏み込むときに大きな踏み込む音が出るくらい、相手の間合いに飛び込んで打つように指導されます。しかし、高く上げた足を踏み下ろして大きい音を出すことが目的ではありません。反動で右足が強く着地したときに大きな音が出るくらい、勢いよく飛び込むようにという事です。

 移動のスピードを上げる事は、競技的にはアドバンテージとなりますので、すり足で力強く左足で床を蹴って、右足で踏み込む動作を行う技術の習得は不可欠です。しかし、昔の先生方は、それでもバタバタと脚を上げる剣道をするなとおっしゃったそうです。実際に、あるご高名な先生が、お年を召されてあまり目が見えなくなっていたはずなのに、弟子の試合を遠くから見ていて「なんだ、あいつはまだ足を上げて剣道をしているのか」と、その足さばきの音を聞いておっしゃったそうですが、その試合は全日本選手権だったそうですから、一流の選手でも、やはり先生にとっては弟子の足の使い方が気になったのでしょう。

 江戸時代に隆盛を極めた一刀流中西道場や、そこから独立した千葉周作が作った北辰一刀流玄武館では、炒った豆を床一面に撒いて、その上で木刀で形の稽古を行ったそうです。足を上げて進めば硬い豆を踏んで激痛が走りますから、自然にすり足が身につくという事だったそうです。

 なぜ。そこまですり足にこだわるか、それは体のバランスを常に崩さない様に動く為です。すり足剣術は板張りの道場でしかできないので意味がないと言う昔の流派の方いらっしゃったそうですが、甲冑を着て泥道を進む事を前提としている古い流派でも、重心をいかに安定させるかという所が体の運用のポイントです。

 日本人の体形はもともと重心が低いので、大股で足を上げて歩くより、すり足のように、すっと足を出して小股で歩く方が、重心を安定させながら移動することのできる、自然な動きなのかもしれませんね。

第213号「八相の構え」

 今回は木刀を使った剣道形の中の「八相(はっそう)」という構えについて書きます。この構えは刀を右肩に担ぐように持つ構え方で、前から見た構えた時の腕の形が、漢字の八の字のようになっているので、八双とも書かれるそうです。

 戦国時代の以前の刀は馬上の鎧武者が使う為の、重くて長い太刀が主に使われていました。兜を着けていれば刀を振りかぶる事ができません。そこで、自然と馬上では刀を片手で肩に担ぎ、地上では両手で刀を持ったままどちらかの肩に刀を担ぐような構えをとりました。これが後に「八相」と呼ばれる構えになったと言われています。

 しかし、現代の竹刀での剣道の稽古の中で、この構えを使う人はまず見ることがありません。現代の剣道において、基本として教わるのは「中段」という構えです。江戸では一刀流の流れを組む道場が多数派でありましたので、その流れで現代に至るまで、基本の構えは中段です。中段は、別名「せいがん」の構えと呼ばれます。今の「せいがん」は正眼で、切っ先の延長が相手の喉の高さになるように、正面に向けて刀を持つ構えですが、星眼(剣先を顔の中心につける)、晴眼(剣先を相手の目と目の間につける)、青眼(晴眼で切っ先のみ右目につける)という「せいがん」の構えもあります。

 江戸時代、市中や狭い路地で戦う際には、刀を振り回すより突く方が有利であった事、攻撃と防御のバランスが良い事が理由でこの構えが主流になったと言われています。


 では、なぜ現代剣道ではこの構えを使わないかといいますと、次のような理由が挙げられます。

1. 現代の剣道では、中段の構えからまっすぐ飛び込んで行って、素早く相手を打ちます。ですから足が両方前をまっすぐ向いている方が有利です。しかし、八相は足を逆八の字に開きますから、大きい歩幅での素早い前進後退が難しいのです。

2. この構えで有効な技が、相手を首の付け根から袈裟(斜め下)に斬る事です。しかし、現代の剣道では、安全上の理由から相手の首と肩の付け根を狙う事はありません。

 つまり、この構えで戦う事は禁止ではありませんが、今の竹刀を使った競技としての剣道のルールでは、この構えは不利になってしまうのです。ですから、単に皆やらないだけの話です。

 しかし、かつての剣術の色々な流派によっては、逆にその足の開き方でなければならないという流派もあります。左右に体を開きながら刀を使う技がある古い流派がそうです。竹刀ではなく、刀同士の立ち合い、甲冑での戦いで生きる技です。

 ですから、剣道形の中で、現代剣道では使われない、八相、脇構え、下段と言った構えや、小太刀の構えを使った技術をもって稽古するのは、剣道は単なる競技ではなく、刀を使う事を前提とした技術であるという、文化的な側面と理解を深める為なのです。

第212号「道がつくもの」

 武道、書道、華道、茶道、なんでも「道」という字が付くものは、長い時間をかけて修練し、心と技を磨くものです。一朝一夕にできるものではありません。

 しかし、大切なことは、その今の自分のレベルで楽しむことです。例えば、初段には初段の剣道、五段には五段の剣道、七段には七段の剣道があります。でも、初段の人が最初から八段の剣道を目指して悩むよりも、まずは初段で必要な事がしっかりとできるようになって、そのレベルでの充実を心掛けながら、少しずつ上を目指す方が、もっと楽しいと思います。

 言い換えれば、八段の剣道は、初段ではわからなくてもいい。今出来る事を思いっきり楽しめばいいんです。そして、もっと上手くなりたいと、悩みあれこれ工夫をしながらずっと続けていれば、いつかわかるようになるはずです。いや、八段にならなくても、時にはそれ以上価値のある、何かが見えるはずです。

 だから、今はそのために努力をする。いつか本当にわかった時の喜びは、今感じる喜びよりも、ずっと大きいはずです。長い道のリなんですから、楽しんで進んでいかないとね。きつい稽古も、技や体力の悩みも、過ぎてみれば、その全てが自分の進む道を、固く築き上げていくのですから。

第211号「礼の意味」

 「剣道は、礼に始まり、礼に終わる」
 桜剣道クラブで稽古の始まりと終わりに全員で復唱する言葉です。これは、私が子供の頃、初めて通い始めた町の剣道クラブで稽古の始まりと終わりに必ず復唱していた言葉です。今でもこのクラブには帰国した折には稽古をお願いしに行っていますが、このクラブも、もうこの言葉を復唱してはいません。良いとか悪いとかの話ではなく、古くいらっしゃる先生方も子供の頃からこのクラブで剣道を習った先生方ではないので、これも時代の流れでしょうか。 というか、おそらくこんなことは他の道場じゃどこでも言わないんじゃないかなあ。宗教団体の持っている剣道クラブでは色々復唱するかもしれませんけどね。

 では、なぜ今でも私が日本から遠く離れた地で、子供たちにこれを続けさせているかというと、まあノスタルジーもあるのでしょうが、やはりこれが私の剣道の原点で、それを子供たちにも伝えたいというところでしょうか。

 どんなスポーツでもフェアプレイの精神はあり、ヨーロッパにも騎士道はあります。中国拳法でも右拳を左手で包んだり、両手を合わせたりするような礼があります。しかし、日本武道の「礼」、特に剣道の礼というのは、どれとも違うと思うのです。

 西洋の礼は「リスペクト」です。「敬意を表する」という意味です。それは、個人の持つ価値価値観や存在を認めあう、という意味です。中国拳法の礼は「敵意はありません、武器は持っていません。」という意味です。これは、考え方は「手に武器はもっていません」という証明から始まった、握手と同じです。

 剣道の礼は、敬意と感謝です。感謝するということが相手を思いやる気持ち、誠意を以て稽古をお願いする気持ちにつながるわけです。始まりの礼は、単に「決してずるい事はしません」と言う約束ではなく、それ以上に「誠意をもって戦います」という事であり、終わりの礼は「敵も味方もないノーサイド」ではなく「稽古をつけて頂いてありがとうございました」なのです。

 こういった、当たり前の事に感謝する気持ちを、そして、その気持ちをちゃんと伝えることを、子供たちが剣道を通じて学んでくれたらと思います。