第188号 「真似まねマネー」

 最近、中学生になった息子の背が急に伸び、とうとう
私の袴を譲ることになってしまったため、たまたま
どこかから頂いた袴を自分用におろしました。

 これ、「中国のインターネットのお店で安く一式
購入したけれど、いらなくなりましたので」という
方から譲っていただいたものなんですけど、ちょっと
アレっと思いました。袋を開けて仕付け糸を切った
時から、その形に何とも言えない違和感があるんです。

 確かに袴としては概ね同じです。でも、細かい
部分が違う。あからさまに形が違うんじゃなくて、
ちょっとしたパーツの大きさや長さだったんです...。

 で、とりあえず、はけるんですが、脱いでいつも
通りのたたみ方をしようとすると、なんとたためない...。

 多少の流行で違いはあっても、昔からの着物の
基本的な形は数百年もの長い間受け継がれてきました。
そこには必ず大切な意味があるのです。

 たとえば、袴には、股立ちと言って、袴の横に
三角の形に割れている部分があります。

 普通、袴の下に着るのは着物ですから肌が見える
ことはあり得ませんが、剣道着が洗っているうちに縮んだり、
成長期でサイズが合わなくなったりすると、脚が見えてしまう
ことがあります。しかし、だからといって袴の前の部分を
必要以上に横に長くしたり、股立ちを小さく作ったりすると、
履いた時には相当の違和感があります。前から見れば
不格好なバギーパンツのようです。

 こんな袴でどうやって腰に刀を差せるでしょうか。何も入って
いないような、ふにゃふにゃした小さい腰板で、後ろ姿が
ビッと決まるでしょうか。袴のヒダ(洋風に言えばプリーツですかね。)
が開かずにスッと下まで伸びた、きれいな立ち姿ができるでしょうか。

 有名な建築家であるイサム・ノグチは和紙を使ったインテリア
照明のデザインなどでも有名ですが、かつて自分の照明や家具の
偽物が市場に出回り始めた時に「どうせ模造品を作るなら良い所も
完璧に真似をして欲しい」と言ったそうです。似ても似つかぬ粗悪品を
自分がデザインしたと思われるのが我慢できなかったんでしょうね。

 学ぶ為の模倣か、自分の利益を出す為だけの模造か。学ぶとは
「まねぶ」つまり真似をする事に由来します。しかし、さらに
それを良いものに発展させる目的、いつか自分なりの創造を
行なおうという意思がなければ、物マネどころか、ニセモノは
人に不利益をもたらします。

 ニセモノの剣道着、ニセモノの防具、ニセモノの指導者。
似て非なるからこそ一番困る。悪意のない罪こそ始末に悪い。
ニセモノを本物だと思わせてしまう罪は重大です。

 で、やっぱり日本製に限るよねーって言っても、日本で
安い剣道着を買ったら、大抵はやっぱり「Made in China」
なんですよね。しかも、立派に満足できる品質。

 要するに、どこの国の人だろうがちゃんとわかってる人が
作るかどうかと言う所が最も重要なんですね。

第187号 「錬と練」

 今回は漢字のお話です。クラブのモットーについて
先日稽古の後で生徒たちに話をしました。
このクラブの旗にある百錬自得という言葉ですが、
「何度も繰り返せば自ずから出来るようになる」
という意味です。

すると、ある小学生の生徒から質問がありました。
「先生、錬と言う字はどうして練習の練じゃないんですか」

さて、それに対する私の答えです。

「練習の練は糸偏だよね。糸を作るには繭や綿を
縒り合わせて、それを何度も繰り返すんだ。糸と言う
字は細い糸をより合わせた糸の束を形を表す字だから、
この沢山の細く小さい物をたくさん集めて少しずつ
大きく良いものにしていく意味がある。
でも、金偏の錬は、鉄を純粋なものにしていく事なんだ。
鉄の混じり気をなくすには熱したものを叩く。これを
鍛えるというんだけど、叩かれ鍛えられた鉄は固くなる。
剣道では、君たちは鉄の様に、熱いうちに何度も
叩かれ、鍛えらえて強くなる。だから、この言葉には
金偏の錬という字を使うんだよ。」

いかがでしょうか。これで生徒は納得してくれましたが
ここでもう少し漢字の話をしてみましょう。
 
練習の「練」の偏ではなく旁(つくり)の方を見てみると
「東」という字があります。これは上下を縛った何かが
入った袋の形を表すそうで昔は染めようとする糸を、
袋に入れて何度も煮る事で柔らかく使いやすくしたそうです。
ですから「練る」という言葉は本来は「柔らかく使いやすくする」
という意味であったそうです。

また、錬という字に関連する話ですが、日本刀の
作り方と言えば、実際に日本刀をご覧になった事が無い方も
「鉄は熱いうちに叩け」という格言から想像するように
熱して叩くというのは何となくイメージにあると思います。

日本刀の作成では折り返し鍛錬と言う作業を行います。
叩いて平たくした玉鋼をさらに折り返して重ね、それを
何度も繰り返すのですが、この鉄を折り返して叩く作業とは
元々は叩いて不純物を弾き飛ばすという精錬の工程の
作業であります。鉄は叩かれ、高温で熱され後で、急激に
冷やされると固くなる性質がありますが、また折り返す事で
練られて成分がより均一になり、どの部分も同じ硬さ、
しかもただ硬いだけでなく、粘りのある丈夫な硬さにする上でも
大切な作業なのです。

なぜなら、ただ硬いだけでは刀は折れてしまいます。
衝撃を吸収する為には、粘り強さも柔らかさも必要なのです。
それはまさに、人間でも同じことなのでないでしょうか。

子供達にも鍛えられた刀のように、強く丈夫である
と同時に、何事にもへこたれない腰の強い粘り強さと
衝撃を受けても、それを支えられる柔らかさを持ってほしいと
願っています。

 では切れ味はというと、刀をするどく磨き上げて
美しく仕上げて行くのは、彼ら自身の仕事なのです。

第186号 「木刀稽古」

 剣道の稽古では、竹刀の他に木刀も使います。木刀での稽古に、
日本剣道形という稽古法があります。大正元年に制定された
「大日本帝国剣道形」が、ほぼそのまま全日本剣道連盟が
日本剣道形として、昇段審査の項目に加えられています。

 また、2003年には「木刀による剣道基本稽古法」という
新しい剣道形が制定されました。日本では、小中学生などの
受審者が多い一級の審査の実技に入っています。

 この二つの稽古法の主旨を簡単に言えば、
一つは「剣道は刀法である」という観念を学ぶ機会を与え、
正しい文化の伝承をすること。もう一つは相手に対して
刀法に則った正しい体の使い方が出来るようになることです。

 木刀による稽古が近年奨励されるようになった理由は、
剣道普及の中で竹刀での競技の比重が大きくなり、
そこで相手より先に竹刀を当てよう、当てられないようにしよう、
という事にこだわりすぎると、それは競技ありきの剣道になってしまい、
本来の剣道とは全く異質のものになってしまう可能性があるからです。

 また、そこには学校教育という「きっかけ」があります。
大日本剣道形の制定も、剣道が体育の授業の一環として
取り入れられる事になった直後から制定に向けての
調査研究が始まりました。

 まだ、元は侍として刀を差していた人々がたくさん生きていた時代です。
そして現代は、武道を学校教育の一環として行う為に、
剣道の意義を再考する時代になったのです。

 刃があるかどうかということは、剣道にとっては非常に大切な概念です。
竹刀での打ち合いでも「刃筋が通っているか」と言うのは
一本の要件であり、判定の基準の一つです。

 私たちが実際に刀をとって戦う事は、おそらく万に一つもありません。
現代人にとって、剣道修練の目的は、刀法を学ぶ事によって、
厳しい稽古の中で精神を磨くこと、つまり人間性を磨く事です。
ですから、稽古を通して自分に厳しくするように、他人には礼節を持ち、
やさしくしてゆくことを学んでゆくわけです。

 だったら、刃筋があるかどうかなんて関係ないのではないか
と思う方もいらっしゃるかもしれません。それに、現代の剣道では、
日本刀では出来ない技、竹刀だからこそ出来る技もたくさんあります。
確かに現代の試合ではそういう技があっても良いと思います。
修行の課程でそういう技を身につけることも大切です。

 でも、伝統の継承という事を考えれば、剣道の哲学は命を懸け
刀をとって戦った武士の哲学ですから、だからこそ剣道の中に
「刀」という観念が根底には必要なのだと思います。

 ただ、実際の刀の使い方などを考えずに木刀での稽古ありき
になってしまうと、そのうち技に対する解釈が次第に変わって、
こんどは「刀」の技術ではなく「木刀」の技術になって
しまうこともあるので、特に注意が必要です。

第185号 「負ける楽しみ」

 私が自分でクラブを始めて、子供やお母さん、お父さん方
そしてクラブを手伝ってくれる中級者の仲間を指導する
ようになって以来、「負ける楽しみ」というのが出来ました。

 負けて嬉しいのか?いやいや、嬉しいんじゃありません。
小生は周りの人が思うよりもずっと負けず嫌いですから、
悔しいことはあっても嬉しい事なんか一つもありません。
剣道は勝ち負けだけじゃありませんが、
そりゃあ負けっぱなしでいいなんてことはありません。

 しかし、負けて楽しいってことはあるんです。
それは、自分の教えてきた子供たちや仲間たちが、
偶然でもいいタイミングでいい打突が出たり、
自分との稽古で、頑張って素晴らしい一本が出た時、
これは楽しいですね。

 「それは楽しいんじゃなくて、嬉しいんじゃないの?」
と思う方もいらっしゃると思いますが、その通り。
結果としては嬉しいんです。頑張って稽古した結果ですから。
 
しかし、剣道というのは、それが出来たから終わり
という事はありません。大会で優勝したからおしまい、
何段の審査に受かったからおしまい、という事もありません。
そのさらに先に大きな世界が広がっていて、
だからこそ「剣」の後に「道」がつく訳です。

 楽しいのは、子供達が何か一つが出来るようになった
ことで、次につながる道がまた見えるようになった事。
それに将来彼らが、いつか自分と競い合えるようになり、
自分が今見ている世界、そして目指している世界を、
同じように追いかけられる日が来る事。

 そして、何よりも彼らの成長の中に、自分が存在することです。
「今日はどうかな、前より上達したかな」
「お、いいところで打ってきたな。では、これならどうだ」
稽古の中でこう思う一瞬一瞬は、すごく楽しいんです。

 こっちも必死で稽古しなくてはなりません。
子供たちや仲間が頑張っているのに、自分だけ先生なんて
呼ばれて油断して負ける訳にはいきませんからね。
自分が指導してきた生徒達と自分の技を競い、
磨きあえるようになんて、本当に楽しいじゃありませんか。

 同じ夢を見る仲間が増える。こんなに素晴らしい事はありません。

 私の手の中にあるものは、決して金じゃ買えない物なんです。
どんなに偉くなっても手に入れられない物なんです。
その幸せに感謝こそすれ、決して忘れてしまう事の無いよう、
常に心を磨き続けたいと思います。