第168号 「不易流行」

 「不易流行」(ふえきりゅうこう)という言葉があります。
これは、松尾芭蕉が俳句について語った書の中の
「不易流行其基一也」と言う言葉から生まれたものです。
変わらないもの(俳句のリズムや基本的なルール)と
新しいもの(新しい表現や世間の流行)を取り入れて変化していくことは
表裏一体であるということです。

 変わらなければならないもの、変わってはいけないもの、
みなさんも沢山のことが思い浮かぶと思いますが
これはやはりこの二つの事がバランスよくあってこそだと思います。

 例えば、商売においても、気を見るに敏であること、
市場の流行やこれからの需要などを的確に捉えながらも
変えてはいけない所、すなわち富の追求以外にも
老舗であれば創業者の理念であったり
また一般企業でも最終消費者の幸福が大切であるという考え方を
守っていくことが大切なことであるのではないでしょうか。

 また、例えば国際政治の中で、色々な駆け引きがあり
強く対応していかなければならない時もありますし、
また時には他国に譲らなければならない時もあります。
情勢や読み取り関係を鑑みながら、機敏に対応していかなければなりません。
しかし、絶対に変えてはならないのは、国民全体の富と幸福が目的であり、
逆に政治家や官僚の権力闘争やであったり、
私利私欲になってしまっては断じてなりません。
(ただし、単なるエゴを国民の幸せにすり替える人間が多いのも残念ですが。)

 剣道はまさに不易流行そのものです。
血みどろの戦国時代から平和な徳川時代に移り変わっていく中で
剣の技術の中に、武士=統治者としての精神性、
さらには人間性を求めるようになりました。

 現代では刀を使って戦う技術は全く無用のものです。
しかし、刀の技術に竹刀の技術という別の側面を加え、
厳しいながらも安全なスポーツとして進化して行くと同時に
侍の時代からうけつがれて来た
生と死を想定した精神修養としての一面、
そこに生ずる人間どうしの敬意を持った関係性
そして、日本の伝統的な作法、剣の道であるという理念、
こうした変わるべきではない素晴らしいところが剣道にはたくさんあります。

 また、竹刀の技術をもって稽古や試合を楽しむことも、
これらの変わらない部分があるからこそ楽しいと思いますし
また、精神修養ばかりでは、体をぶつけ合って競い合う楽しみや
体を動かすという楽しみを得ることはできず、魅力は半減してしまいます。

 もし、剣道が単なる竹刀での叩き合いになったら
ちょっと観る方は面白いかもしれませんが、
やる方にとっては、おそらく剣道の魅力的は半減すると思います。
身体能力のみを極限に高めた技術だけが通じる競技というのは
自然と競技者人口の幅が狭くなります。中年になってから再開したり
始めたりすることや、体格や体力に自信がない人が始める事もできません。

 剣道の競技人口が、ここまで道具などで
お金がかかるにも関わらず、他の武道にに比べて
圧倒的に多いのは、変わってはいけない部分の
魅力があるからこそではないかと思います。

 普段は可愛い着こなしの若い女性が、浴衣を素敵に着こなしていると、
なんだか、ずっと大人っぽく見えて魅力倍増ですし、
逆にいつも着物を素敵に着こなしている女性が、
突然色っぽいドレスがバッチリ似合った姿で現れたらドキッとしますよね。

 派手で遊んでそうに見えても、実はやさしいしっかりもので、
料理なんかも上手だったり、古風な手習いができたりすると
とても魅力的ですし、また物静かで大人しそうな女性が
意外にも颯爽とコンパーチブルのスポーツカーで迎えに来てくれたりすると、
これまた異常にカッコ良くに見えたりします。

しまった、これは不易流行じゃない…。

第167号 「体罰」

 スポーツにおける体罰のニュースが多くなりました。大きな問題です。

 基本的に、どんなスポーツも武道も「罰」ではうまくなりません。
恐怖だけでチームを率いて行くこともできません。
そうでなかったら、日本人全員がもっと昔にスポーツうまくなってるし、
多分あらゆる競技で優勝してます。(笑)

 基本的に武道に共通しているのは、先生が生徒より強いという事です。
先生は目の前に立ちはだかる巨大な壁です。
しかも、先生だって日々努力をしています。

 ですから、剣道においては体罰以前に、まず稽古で先生や先輩に徹底的に
慢心を叩き潰され、自分の至らなさを知らされる事が多いので、
こちらの方がよっぽどキツイのです。

 また、強いからこそ指導者となり、指導者であるからこそ、
人格者であることを求められます。
これは「武士とは社会のヒエラルキーの頂点で、模範たらしめなければならない」
という武士が支配階級になった時代以来の日本の発想です。
しかし、ここに孕んでいる危険性というのは、上の立場だから
下の者への礼儀は必要ない、と勘違いしてしまうことが有り得ることです。
これが一番の問題なのだと思います。

 さて、私なりに、監督や先生の役割を考えてみました。

 コーチ...総合的な技術指導者
 監督...チームの理念、方向性、指導や練習の方向性を決める人。

これに対し

 先生...技術指導者、精神的指針、目標、

であり、先生の場合は、より生徒と個人的な関わりが主体となることです。
また、先生は登山家の目の前にある巨大な絶壁であると同時に、
自分の人生を導いてくれる“恩師”であることです。

 つまり、技術だけではなく、人との接し方(礼節)、
後輩や生徒の面倒の見方まで、人としての考え方まで、
身をもって気持ちを示していくのが本当の指導だと思います。
(あくまでも品行方正にというのではなく、たまに大酒を呑んで
楽しくハメをはずしても、若いおネエちゃんのいるお店であそんでも、
ちゃんと生徒の事を考え、心の高みを目指し、人として誠意をもっているか
と言う部分が大事なのだと思います。と、自己弁護をしておきます。)

 しかし、また球技などのスポーツチームの監督が、
反対に「先生」としての役割を果たしている場合も多くあります。
監督がチームの精神的支柱としての役割を果たしているクラブや
チームもたくさんありますし、個人競技ではコーチとの人間関係が
選手の心の支えとなっている事も沢山あります。
無名でも弱小チームでも、人間として素晴らしい指導者も
沢山いらっしゃいます。

 では、スポーツや武道における先生とはなんでしょう。
簡単に言えば、たまに崖から突き落としても、声で励まし、
行く手を示し、手を差し伸べて待っていてくれるのが先生です。
ただし、ずるいことをして上がってきたら、再度突き落とされます。

 ここで大切なことは、どんな厳しい稽古を課しても
「自分の熱意はわかってくれるはずだ」ではなく、
まずはちゃんと話をして信頼関係を作り上げることです。
ちょっと励ましの声をかけるだけでも構わないんです。

 前提として、この信頼関係がなければ、やっぱり辛い稽古を課しておいて、
「こんなこともできねえのか、死ね」なんていうのは、
崖から突き落としておいて、さらに上から石投げてどっかいっちゃうのと同じ、
と言う風に生徒が感じても仕方がないのかもしれません。

 ましてや、要求した事が出来ないからと言って殴るのは意味がありません。
殴られたって、出来ないもんは出来ないんですから。
武道において教わった技が出来なければ、練習でも相手に倒される。
先生に倒される。悔しいです。それで十分にわかる話です。

 剣道でも、私は体罰は反対ですが、稽古が厳しいのは当然なことです。
厳しい稽古を乗り切って分かることは沢山あります。
しかし、これを乗りきる精神力も必要です。精神力というのは、
つまり高いモチベーションを維持できるかということです。
このモチベーションを上手に引き出すのも指導者の役目です。
辛くても、それ以上の魅力を感じるように導くのも指導者の役目です。

 ただし、厳しい稽古というのは、むやみにどんどん身体的な
負荷をかける練習とは違います。限界を超えて稽古をさせるというのは、
やっぱり意志の疎通と指導者が生徒の能力に合わせて
限界を見極めながらやる、という部分がとても大切なんですね。

 極論かもしれませんが、どんなスポーツの指導者であれ、
指導者だからという「義務感」が強すぎる人は、かえってどんなことをしても
結果を出させてやりたいと思う気持ちが強すぎてしまって、
指導が自分本位になってしまいがちかもしれません。

 若い指導者が張り切りすぎて、選手を怒鳴りまくって蹴っ飛ばしていることは、
おそらくどの世界でもありがちなことです。
いくら現役で強かった選手だからといって、
単に指導法を勉強するだけでは、不十分だと言わざるを得ません。
指導者の為の、良いお手本となる指導者が必要だと思います。

 ちなみに、武道にせよ他の格闘技にせよ、
「これ、一体何の意味があるの?」
と思うくらい厳しい稽古があることがあります。
例えば、空手では鍛錬であえて自分の体を痛めつけます。
ビール瓶や角材で腕や足を叩いてなんの意味があるんだろう
と思っていましたが、実際に空手を習い始めて、
先生が自分の正面突き(パンチ)を受けた時にわかりました。
それは受けではありませんでした。
受けという名の「破壊」でした。
思わずその場でしゃがみこんだ位痛かったです。
本当に折れたかと思いました。

 ただし、剣道は防具着けているので、これだけは本当によかったと思います。