第152号 「つかむ」

 落語家で古今亭志ん朝という方がおります。
才能を惜しまれながら六十歳そこそこで世を去った、
本当にすばらしい落語家でした。
テレビにも良く出ていましたから、落語をあまり
ご存じなくても顔を見れば「あー、あの人ね」と
言う方がほとんどではないかと思います。

 これも亡くなられた、あの口の悪い立川談志が
「金を払ってでも見たいのは、志ん朝の落語くらい」
と言っていたそうですが、若くして名人と呼ばれましたが
おそらく彼のような人こそが、年と芸を重ねると
本物の大名人と呼ばれるようになったのではないかと思います。

 この方のお父さんというのが、古今亭志ん生(5代目)という、
明治の生まれの大名人と呼ばれた人なんですが、
その志ん生について、志ん朝が師匠として語る場面があります。

 志ん生というのは非常に味のあるというか
飄々としたというか、間の抜けたような、
悪く言えば、酔っ払いが喋るようでありながら、
(本当に酔って高座に上がったこともあったそうですが。)
それでいても品があるというのがいいと思うのですが
この人が、途中で「えー」とか「うー」とか言って
パンパンと歯切れよく喋る人ではないんです。

 若いころの志ん朝はそれがじれったくて
飲んだ時に聞いたそうです。

「お父ちゃん、なんであんな風にうーんなんて言ってなかなかしゃべらないんだい」

 すると志ん生がこう言ったそうです。

「そりゃお前、うーんって言ってると客が前に出てくるんだよ。」
「何?その客が前に出てくるって」
「おれが「うーん」って言ってると、客が「うー」っていって
引っ張られて前に出てくんのがわかるんだよ。
で、手前に引き寄せておいて、パッとくすぐり入れるとドーンと受けるんだよ。
そりゃまだお前なんかじゃだめですよ。
さんざんやってやって、うーんというと客が「この人は何を言うんだろう」
ってんで、ガッと引き付けられて来るくらいの年配とか芸歴とか
重なんなきゃできないけれども、今は俺はそれがとっても面白いんだ」
と語ったそうです。

 私は、この話に剣道を見ました。

 また、志ん朝はこうも言っていました。

「芸人ってのは、とりわけ噺家なんてのは、ほかの芸人さん、
例えば、曲芸であるとかマジックであるとかは、
とにかくその技術がうんと良くなくっちゃいけませんがね、
噺家ってのはある程度のところまで行ったら、
こんどはそれを置いてというか、忘れてというか
後はその間に培ってきた人物を出して、ってのが
最終的な目的だと思うんですよ。」

 私はここにも剣道を見ました。皆さん、お分かりになって頂けたでしょうか?

第151号 「表現者」

 昨日の稽古の後で、ジェームス・モリソンという
有名なジャズミュージシャンの出演するコンサートに
小5の長男を連れて行ってきました。

 彼はトランペットの演奏が特に有名なんですが、
いや、とにかくすばらしい演奏でした。

 その彼がMCの中でこんなことを言っていました。

「ミュージシャンというのは、
「何をするか」というのではなく
「何者であるか」ということなんです。」

 何気ないことでありますが、心に響く言葉でした。
(努力をしてきた一流の人が言うと何でも心に響きますね。)

 確かに、ただ上手に楽器を使うから、
その人が音楽家かと言えば、それは違いますね。
楽器を使って自分を表現するのがミュージシャンです。
他の芸術だってそうですもんね。絵筆は誰でも使えますが、
それを使って自分を表現しようとする、
その行為が芸術なんですね。

 つまりは、芸術や音楽の表現というのは
自分自身の存在、魂の叫びそのものなのだと思います。

 絵が上手な人も、楽器が上手な人も、世間にはたくさんいます。
だけど、自分のむき出しの魂と向き合う、恐れなき純粋な心。
その心が見える作品や演奏こそが、
本当に人の心を打つのではないでしょうか。

 早く竹刀が振れるから、上手に相手を叩けるから...。

 それだけではなくて、自分の純粋な心のほとばしるような一撃が
相手や見ている人の心を打つような、
そんな剣道がいつか出来ればいいと思います。

第150号 「アスリート万歳!」

 連日、ロンドンオリンピックが中継されており
家族で楽しく観ています。特に陸上ファンで
今も短距離走で中高年の部で現役の家内は
大興奮しながら一喜一憂で観ておりますし、
子供達も夢中で見ています。

 バスケットボールの予選では
残り一秒で逆転シュートが決まって
テレビの前で思わず拍手喝采をしたり、
思わぬ怪我をした選手に一同息を呑んだり、
なんとも騒がしい様子で観ていますが、
私にとっては普段あまり観ることのできない競技を
見ることができるのも楽しみであります。

 トランポリンや、射撃、カヌーや飛び込みの試合...
本人や身近な人が行っているか、その国で競技人口が多かったり
しなければ、やはり普段あまり見る機会は少ないので
そういう競技をルールを調べながら観るのも、また面白いのです。

 信じられないことに昔のオリンピックには
「決闘」「軍事偵察」「鳩打ち」
なんて競技もあったそうですが
「彫刻」「伝書鳩」にいたってはまだしも「都市計画」という
どうやってもスポーツとは関係ないものまで
あったそうですから、驚きです。

 しかし「綱引き」は復活したら面白いかもしれませんね。
ただ完全に体格の差がはっきり出ると思いますから
日本はあまり勝ち目はないかもしれませんが。

 さて、剣道はといいますと、何度も議論されていますし
ここでも過去に書いていますから、もうあまり書きませんが
やっぱりオリンピック競技じゃなくてよかったなあと思います。

 柔道やボクシングが悪いのではなく、変な負け方をしそうな
緊迫感は生まれたものの、勝負をわかりやすくする為の
オリンピック用のルール改正で、なんだかその競技の持つ
面白みが薄くなってしまった気がするのです。
(テコンドーは歴史も浅く、最初からそういう方向で
進化しているので特にいいんですけど。)

 オリンピックに採用されることで一番恐ろしいのは
剣道の価値観が変わってしまうことです。

 試合が悪いとは決して思いません。それは必要なことです。
しかし、ある競技の世界化が進むということは、
新しいアイデンティティーが生まれる可能性があるということです。
つまり競技の伝統を無視した考え方をする人たちが出てきます。
たとえば、どんな体制からでも早く竹刀を当てればいい。
理にかなってなくても、とにかく当てられなければいい。
そういう人たちが増えてくるのです。(実際に増えています。)

 そのために特化した技術をひたすら稽古して、
そういう剣道が実績をあげると、やはり剣道の指導者の
少ない国では、そういう剣道を目指していくことになるのは
必然的になるのではないでしょうか。

 そして、審判に抗議したり、負けたら礼すらしなかったり。
つまり勝敗のみが重要視される競技になってしまうのです。

 そしてそういう相手と戦うには、当然そういう技を
稽古していかなければなりません。
ここに大きな矛盾が出てくるのだと思います。

 剣道は歴史に基づくアイデンティティーの上に
成り立っています。問題は、このアイデンティティーが
変わってしまうことだと思うのです。

 たとえば、フェンシングは電気審判機を用いますから、
審判ではなく機械がすべて判定すると思われがちですが
ちゃんと攻撃権や攻撃部位などにも厳しい規則があって、
やはりちゃんとフェンシングのことがわかる審判が
存在しなければなりません。
しかも、このルールはちゃんとした伝統と歴史に基づいて
成り立っているルールです。
(また、試合用のルールと伝統的なルールが違うそうです。)

 そんな競技ルールや伝統がある試合の中で
「1秒差で負けた、このルールは不公平だ」
といって抗議をして泣けば特別賞がもらえるなんてのは
冗談としか思えません。
これが国を代表する選手のスポーツマンシップでしょうか。

 ちなみにシドニーオリンピックからジャケットは
白以外でもOK、国が判別できるデザインということに
なったそうですが、これは完全に「テレビに映った時に」
ということを考慮してだそうで、
「なんだよ、結局はテレビ都合かよ」
と最終的にはなってしまうのも今のオリンピックです。
 もしテレビの都合で、レインボーカラーの剣道着を
着せられたら、それはなんとも複雑な気がするでしょうね。

 しかし、それでもやはりオリンピックの選手たちは真剣です。
練習した全てをかけて試合に臨むのですから
勝っても負けても、そこに様々なドラマが生まれるのは
当然のことだと思います。

 そこには、オリンピックをビジネスや政治としてしか
捕らえていない人にはわからない、そしておそらく
観客にもわからない、アスリートたちの熱い想いが
あるはずなのです。

アスリート万歳!



追記

 男子リレーの予選で奮闘の甲斐なく負けてしまった
オーストラリアの選手に、試合直後のインタビューで
「帰国したときに非難されることについて、覚悟は出来ていますか」
と真剣にふざけた質問をした自国のテレビの記者を、とび蹴りで
客席からグランドに突き落としてやりたい気持ちになったのは
私だけでしょうか。