第149号 「禁断の果実」

 剣道関係者には衝撃的な残念なニュースがありました。
有名選手の不祥事です。柔道に引き続いてですから
またしても武道界に落胆をもたらす衝撃の出来事です。
単に習っている人ではなく、双方とも超一流選手です。

 一流の選手というのは、現役を退くと大抵指導者になります。
いわゆる「先生」と呼ばれる立場になります。

 剣道愛好家にはレクリエーションとしてのスポーツや
競技として勝敗にこだわって剣道に取り組んでいる人もいれば
精神修養のつもりで剣道を稽古している人もいます。

 体を鍛えたい。強くなりたい。試合に勝ちたい。
それだけの人も大勢いると思います。
いや、それはどんなスポーツでも同じです。
やるからには勝ちたいし上手になりたいのは当然です。

 だからこそ、バスケットボールでも、ボクシングでも
心の修行はできるしプレーや練習を通して人間性を
磨く事だって十分出来ます。
指導者によっては礼儀だって学ぶことはできます。

 でも、どんなにすばらしい指導者でも、バスケットボールの
コーチやサッカーのコーチは、教職についていない限り
「先生」と呼ばれることはあまりありませんよね。

 一方で、武道はどんな人間でも段位が上がれば
先生と呼ばれるのです。それは武道の修練の最大の目的が
精神修養と人格を磨く事とされているからです。
だからこそ、身を正す努力をしなければならないのです。

 単なるレクリエーションとしてのスポーツと
武道の違いはここにあると多くの人が信じています。
私自身もそうです。

 さて、剣道といえば連想するのは武士道ですから、
他の武道と比べても剣道家というのはストイックなだけではなく
高潔なイメージがあります。これはかつての武士の生活には
仏教における禁欲や神道における忌みという考えに基づく
修行イコール禁欲という考え方があったからです。

 もちろん「英雄色を好む」という言葉もあるくらいですし
戦国の殺伐とした生活であれば、異性に安らぎを求めたりするのは
当然のことかもしれませんが、例えば、上杉謙信は元々信仰心が篤く、
仏門に帰依していた為、国主でありながら、後には
勝利を願って頭を丸め生涯女性を近づけなかったといいます。
また宮本武蔵も生涯妻帯しませんでした。
それどころか、女性を近づける事もなかったといいます。

 こういったイメージがあることから、剣道家というのは、
それだけに事件を起こすと記事にもなりやすいし
ことさら批判も強くなるということです。
曲がりなりにも指導者と呼ばれるようになったら、
それを自覚しなければなりません。

 また、だからこそ、そのプレッシャーに負けて
魔が差すように、禁断の果実に手を伸ばしてしまう人も
残念ながらいるのかもしれません。

 ちなみに実際のところはどうかというと
想像通りというか、当然ながらみんな普通の人です。
勝手な私見ではお酒が好きな方が多い気がします。

 ただ、どんなに酔っ払っても、目の奥が全然
酔っ払っていない先生がいることも事実で、
これは本当に色々な意味で恐ろしいです。

 そして、どんなに酔っ払って騒いでつぶれても、
早朝の稽古から平然と稽古をしている先生方が
いらっしゃることはさらに恐ろしいです。

 ですから、普段はのらくらと適当な様でも、
イザという時に「崩れない」ということを
身に着けるのも武道の心がけなのではないでしょうか。
 
 たとえ隣にビキニ姿のきれいな女性がいても...
私に限って言えば、100パーセント見ます。

第148号 「もらうよりも」

 世界中のほとんどの中年剣道愛好家にとって
稽古の仕事や家庭との両立という大変な苦労があります。
友達と電話でコソコソと稽古の時間の打ち合わせをしていて、
あとでカミさんに、「恵子って誰よ!?」と
怖い顔で突っ込まれた事もあります。
それくらい大変です。(笑)

 稽古は当然時間が制約されますから、
仕事で稽古に参加出来ない事も、多々あります。
剣道の為に仕事すら変えてしまったり、家庭を
持たないという方もいるかもしれませんが...
すみません、私は普通の人なので、
たとえいくら剣道が好きでも、剣道の為に
家庭を捨てることはできません。

 しかし、友人たちと剣を交わすこと
そして信頼する先生方に稽古を頂くことは
本当に生活の中でのすばらしい楽しみです。

 家庭のことならまだしも、仕事で稽古に行けないと
当然ストレスがたまります。仕事は大変ですが
好きな仕事なので、仕事のストレスを発散できないのではなく
単に楽しみが奪われたストレスですね。

 本当は仕事もとても忙しくて悩みも尽きないんですが
「天は乗り越えられない試練は与えない」
という言葉は本当なんじゃないかと思います。

 じゃあ、乗り越えられなければ自分が悪いのか。
悪くありません。乗り越えられない事で学ぶことも
たくさんあると思います。それを違うことで生かせばいいのです。

 でも、与えてもらおう、助けてもらおうと思ったら
それではいつまでたっても、物事は前に進まない。
だから、逆に自分から与えてみることです。

 与えること、つまり自分の為にではなく
自分に直接の利益にならなそうな事にでも
ポジティブに動いてみることです。

 与えて、他の人に喜んでもらうことで
また新しい世界が、そして新しい自分が見えてくることや
学ぶことができることがたくさんあるはずです。

 剣道でも、まず教えて欲しいと思う前に
自分自身が頭と体と心を使って努力することです。
そして道場の掃除をしたり、目下の者に誠意をもって
接することです。そこに見える物は
おそらく、たくさんあると思います。

 また子供たちに教えたり、初心者に教えることで
学ぶこともたくさんありますし、教える立場だからこそ
自分でさらに修行していかなければなりません。
剣道でも剣道以外の修行の中でも、
全て同じことではないでしょうか。

第147号 「すりあし」

パース桜剣道クラブ通信 147 「すりあし」


 剣道の足踏みようは、基本的にはすり足です。
しかし、遠くに飛び込んで面を打とうとする場合などは
左足で強く踏み切りますから、自然と右足は遠くに
着地するために勢いよく踏み込むような形になります。

 昔の古武術などでは鎧を着ていることを
前提としている為、腰を低くして、足をしっかりと
踏みしめるように歩み足で動く流派が多くありました。
 鎧兜をつけていれば上体が重い訳ですから、
足を高くあげるとバランスを崩してしまうためです。

 また、前提として鎧兜がある訳ですから、
刀を頭上に振り上げる事はできません。
したがって刀を肩に担ぐように振り上げて、
体を左右に開きながら相手の首筋や間接などの
鎧の隙間を狙う技術を磨く流派が多くあります。

 この鎧武者の低い構えに対して早く動けるように
新陰流の家元の血筋である柳生兵庫が直立するような
構えを考案し、また奇しくも同時期に、剣豪宮本武蔵が
独学で直立しての戦い方を編み出しました。

 そして江戸中期以降、面籠手をつけての
剣術が主流となると、それ以後多くの流派が
この自然に直立したような構えになります。
そして、中西派一刀流に学んだ千葉周作のが開いた
北辰一刀流のあたりから、現代の剣道の様に、
踏み込むようにすばやく飛び込んで打つように
なったと言われています。

 こういった飛び込むような動作は、竹刀を使った
現代剣道に近い剣道独自の動きと言われていますが、
竹刀や面籠手をつけての稽古を採用しなかった他流では、
自分たちの流派の宣伝も含めて
「すり足の剣術は、所詮はきれいな板張りの道場での
平和な時代の剣術の足裁きだ」
と竹刀を使う流派の悪口を言う人もいたそうです。

 ただし、この北辰一刀流でも木刀での形稽古では
遠くから飛び込んで打つことはなく、すり足を維持するように
道場に乾燥させた豆をばら撒いて、うっかり足をあげて
上から踏むと激痛の走るような稽古もしたと言います。

 いずれにせよ、体ごと前に出て斬る、打つ
ということは必ず覚えなければならない大切な動作に
変わりはありません。

 さて、このすり足はという動作は多くの日本の伝統的な
所作に取り入れられています。特に礼法や作法が重要となる
弓道、茶道、伝統舞踊などに多く見られます。

 それに、着物であれば、このような所作が合理的であり
自然と手の動き方がそれに合わせたものに変わってくる訳ですし、
更に肩の力を抜きながらも姿勢を正しくしなければなりません。
その為に、自然と重心が下に来るようになる訳です。

 当然ながら足の長いヨーロッパ人には、
なかなか苦手な動作のようですが、現代の日本人も
生活様式は完全に西洋化していますから、
こういった所作もなかなかできずに苦労する子供たちが
増えてくるのではないでしょうか。

 ただ、普段は使わなくとも、こういった剣道や
日本の伝統的な作法を習うことで、自分たちのルーツを知ったり
日本人以外にとっても、ほかの文化を知ることで
自分たちの文化を改めて再認識するよい機会に
なるのではないかと思います。

第146号 「スパルタと自主性」

 先日、日本のテレビ番組を観ていましたが
その中で「スパルタと自主性」という特集をしていました。
二つの有名な高校のラグビー部を比較し、
この二校が決勝で対決するのですが、
一方は監督が厳しい練習を課し、大声で叱咤激励する
いわゆる「スパルタ式」に見える指導方針。
かたや、生徒の自主性に任せ、自分たちで目標を
設定してトレーニングをさせるという指導方針なのです。

 後者の監督もかつては大声で生徒を叱責しながらの
練習でしたが、いろいろ思うところあって指導方針が変わり
現在はそのようになったとのことでした。

 試合前の監督のアドバイスもやはり顕著に違って、片や
「俺たちは絶対勝つぞ、オー!」という感じの気合の入れ方、
もう一方は「こんな大舞台で試合できるのは楽しいな。最後まで楽しめ」
という感じでした。

 まあ、試合は毎年両者が決勝で当たり、後者が何年も僅差で勝っている
ということなので、試合の結果で「だからこっちのやり方が・・・」と
なってしまいがちですが、試合の結果はさておき、
双方ともすばらしい監督だと思いました。
まあ番組の特集も長い時間ではなかったし、ちょっと表面的でしたが
どちらかを否定するような作りではなかったので
内容的には良かったと思います。

 この二つの指導法は違うものとして比較される事が
良くあるんですけど、実は表裏一体で、やはりバランスが
難しい所だと思います。自主性に任せるというのは、やはり目標があって、
そこに向かう意思があって、初めて成せるものであると思います。
(もちろん、そこに向かってモチベーションをあげるのも
指導者の役目なんですが。)

 スパルタ式の語源は、古代ギリシャのスパルタという国家での
子供に対する軍人教育で、弱い子供をふるい落として
強く鍛え上げる為に体罰を与えて厳しい訓練をおこなったところに
由来するという説があります。

 もちろん、単なる体罰は問題外ですが、大概の場合、
武道では厳しい稽古はつき物です。これは「戦い」なのですから。
もちろん、好きで強くなりたい人は、厳しい稽古も乗り切れるのですが
逆に厳しい稽古を乗り切らなければ、やはり強くはなりません。

 ただし、ここでいう厳しい稽古というのは、ただ単に
無茶苦茶に体に負担をかけて「精神を鍛える」と言ったような
単純なことではありません。

 仲間や先生方、そして自分自身に必死で挑戦して、敗れて、
自分で考えて、それができる様に、また何度も練習して、
というのが本当の厳しい練習だと思います。

 自分で考えて自分のペースで色々行うことができるという事は
本当に大切だと思いますが、まずはそれを実践できる力がなければ
ただ楽しいだけで上達は難しいですし、また反対もしかりです。
その辺を踏まえてどう指導していくかと言うところが、
まさに指導者の良し悪しを分けるところだと思いますが。

 では、自主的にやるのなら指導者は要らないのでしょうか。

 剣道のように「概念」の部分も重要なウェイトを占めている
場合は指導者がいなければ、やはり独りよがりなものに
なってしまうこともありますので気をつけなければなりません。
また、精神的なものも重んじますので、単に楽しくというより
平常心で行うところが大きいのではないでしょうか。

 何が言いたいのかというと、つまるところ、
どちらも必要な練習方法であることには変わりありません。
ただ、それをうまく効果的に使い分けることができるのが
上手な指導者であり、そして一番大切なの事は
どんな指導法でも、結局は指導者と学習者の間に
信頼関係があってこそ、厳しく指導しても学習者は
ついて行きますし、言わなくても積極的な自主性を
高めてくれるのではないでしょうか。

第145号 「折れた竹刀の利用法」

 西オーストラリアの気候は春と秋があっと言う間で、
とにかく雨の多い冬以外は乾燥しています。
 したがって竹製品である竹刀もちょっと手入れを怠ると
すぐに割れてしまいます。

 あまりお勧めはできないのですが、多くの人は
壊れた竹刀を一度バラして、まだ丈夫な竹だけを
次の壊れた竹刀の竹の差し替えようにとっておきます。

 ただし、これは同じ形で長さの竹刀でなければ
うまくいきませんので、普通竹刀は数本同じものを
まとめて買うのが一般的です。

 何が悪いのかというと、まずはきちんと組めなければ
安全上の問題があるということ。
そして、さらに一番大きい問題は耐久性です。

 例えば下側の竹が割れてしまったので交換するとします。
すると、その時には全く新しい竹刀を分解して、そこから
とった竹で差し替えるか、同じように下側に使われていた
竹をつかわなければなりません。

 また、このときに
「相手にあたる部分はちょっと傷んできたから
ひっくり返して使おう」
なんてきれいな方を下にして使おうもんなら
大抵数回打っただけで折れてしまいます。
それはなぜでしょう。

 竹は硬い表面を持ちながら柔軟性に富んだ素材です。
竹刀で叩くということは、竹刀の竹に一定方向から
力がかかる訳で、つまりは竹刀が目標にあたった瞬間は
目標を軸として竹刀の先が大きく下にたわむことになり
これを繰り返すというのは、何度も一定方向に竹を
曲げているのと同じになります。

 ですから、既に繊維が圧力を受けて微妙に
曲がっているわけで、ここに反対側から強い圧力をかけると
どうなるか。当然ながらポッキリ折れるわけです。
本当は時々火であぶったり手で力を加えて
少し元に戻す方がいいそうなんですけど
素人がやると竹刀を焦がしてしまったり、無理に曲げて
折ってしまったりするので、あまりお勧めしません。

 さて、こうして交換したあとの折れた竹はどうするか?

 実は意外と利用法がないんですけど、やっぱりいい竹なんで
何かに使えればなあと思っています。
 私はよく竹刀をを折ってしまう方なので
たまっていく壊れた竹をみてもったいないなあと。

 私は削って竹とんぼ、ペーパーナイフ、刀の目釘
を作ったり、飾り用のミニ竹刀を作ったり
子供の為に弓矢を作ったりしますが
他にも何か画期的な、いい利用法を思いついたら
お知らせください。