第118号 「南極剣道部」

 先日、南極に向かう氷砕艦「しらせ」がパースに着きました。
そして乗務員の海上自衛官の方々、また南極観測隊の皆さんの
有志が、地元の剣道愛好家との剣道交流ということで合同稽古に
参加して下さいました。

 非常に楽しい時間を過ごしました。もちろん、これから南極
への任務があるいう事で、全員怪我をしないように気をつけながら
の稽古でしたが、現役で試合で活躍されている方から稽古は
18年ぶりという方まで、色々な方がいらっしゃったにも関わらず
とても楽しい稽古会になったと思います。
 参加して下さった皆さんも、口々に「とても楽しかった」
「パースの剣道愛好家の真面目な剣道に対する姿勢が、自分たちの
稽古励みになった。」「航海中に甲板を走ります」
「南極でも素振りをします」「またお会いしましょう」
とおっしゃって下さいました。

 稽古とお酒を通じて交流が終わり、港までお送りして、
また船に乗り込んでいく時の皆さんの笑顔と固い握手が本当に
感動的でした。異国の地で初めて出会って、剣道を通じて、
まるでエールを送るようにお互いの気合を交換する。
 そこで出来るお互いの心に対する信頼。このような機会を
与えてもらう剣道に改めて感謝しています。

 これから南極で一年間過ごす観測隊の越冬隊の皆さんも、
南極に無事に観測隊を送り届け、南極から昨年の越冬隊を連れて
帰還される海上自衛官の皆さんも、これからまた氷の海の上で、
そして極地での生活が待っている訳ですが、私たちとの稽古を励みに、
また無事に帰還されることを心から祈っています。


第117号 「モチベーションと集中」

 剣道に限らず、何事も精神的に集中するというのは大切な事です。
勉強にしても、仕事にしても、何かを作ることにしても
やはり集中力がなければ最後まで成し遂げることはできません。

 火事場の馬鹿力といって、集中した時にはとんでもない力を
発揮する時が人間にはあります。とっさの場合に人間の肉体が
限界を超えるのですから、人間の脳というのはすごいものです。
 もちろん、やろうと思ってこういう力が出るわけではありませんが
人間の体とはすごいですね。

 普段は脳が人間の筋肉を100%収縮させないように
コントロールしているそうです。
 なぜかと言うと、100%で動くと筋繊維がズタズタになって、
間接が壊れてしまうからだそうで、だから誰かを助けようと
とっさに思わぬ馬鹿力を使って行動した場合は、次の日は相当の
筋肉痛だったり筋や間接を痛めていることになりますが、
これはありえる話です。どこかから落ちそうになって、とっさに
ありえない姿勢で体を差支えて助かったけど、次の日は筋肉痛
だったという事は経験がある方もいらっしゃると思います。

 ただし、脳が普段は10%くらいしか体の機能を使っていない
と言うのは嘘だそうです。漫画「北斗の拳」では「人間は脳の
30%しかつかっていないが、我々北斗神拳の伝承者は
脳の潜在能力を100%使うことができる」のだそうですが
それは漫画だけのお話のようで、呼吸法だけで筋肉ボコボコの体に
なることが出来ないのは残念ですね。


 遠回りしましたが、つまり人間は鍛えた持ちうる力や技術以上の
ものは出せないということです。だからこそ、まずは何度も何度も
反復練習をして、コツを身に着け、体が動くように体力をつけるのです。

 さて、一般的には、じっと息を詰めて何かひとつの事を行う事がいわゆる
集中することなのですが、口笛を吹きながらパッパッとやってしまう方が、
意外とうまくいったりするときもあります。いわゆる、リラックスして行う
という場合です。

 しかし、いくらリラックスしたところで、料理をしたことがない人が
上手になるかと言えば、そりゃならないですよね。普段から何万回も
包丁を使って鍋を振っている人にこそ出来ることです。
力を抜きなさいといっても、力の無い人には力は抜けませんし
力を抜いたところで技術が無ければ、また意味がありません。

 つまり、集中することにしても、如何にその人が持っている力を上手に
使う精神状態を作ることができるかというのが大きな課題なのです。

 では、この精神的に集中するという行為はどのようなことなのでしょうか。
この集中するという行為は高いモチベーションを上手に維持することなのです。
 試合で「勝たなければならない」と思ったとき、失敗を恐れれば
体は硬くなりますし、逆にモチベーションが低くても勝負することはできせん。
体が疲れきっていても駄目です。

 ですから、例えばスポーツにおいては、音楽を聴いたりして
自分に精神的な暗示をかけてしまうことや、大きな声で気合を入れることも
そうですし、自分が勝利したときのイメージを持つことも
体調を整えておくことも、全てモチベーションを維持するためのものです。

 仕事であれば、それが成功したときの事をイメージしたり
または、短期で設定した目標を少しずつ達成すること。
こういった事でモチベーションを維持することが出来るのではないでしょうか。
 
 おそらく、自分が今考える中で最も良いモチベーションだと思うのは
「自分の仕事がどれだけ家族や他人を幸せにできるか、どれだけ自分を含む
社会全体の利益になるか」ということです。

 これが最も大きなモチベーション、つまり「やる気」をの原動力になる
と思うのですが、いかがでしょうか。もちろん、これはビジネスだけではなく
教育機関やスポーツクラブ、ボランティアグループ、人が集まる所であれば
どんな所でも同じだと思います。

 例えばレストランで「俺は何百店舗もビジネスを展開して金持ちになりたい」
と考えるオーナーと「うちの店の料理は誰にも負けない。コンテストだって
何度も優勝している。だから店の料理を食べにきて欲しい」と考えるオーナー、
「少しでも多くの人においしい料理を食べてもらって幸せになって欲しい」
と考えるオーナー。あなたはどこのお店で食べたいですか。

第116号「試練とは」

  「神は乗り越えられない試練は与えない」
今年とても人気があった日本のTVドラマの中でも、よく
主役がつぶやいていた言葉です。

 そして、これと同じような内容の言葉がキリスト教の
聖書にもあるのです。
 「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることは
ないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、
のがれる道も備えてくださるのである。」
という部分です。

 神様を信じるかどうかは別の議論として、
その考え方としては、すばらしいものがあると思います。
たとえ、その状況自体は変わらなくても、その中で
どのように自分が取り組んでいくか、克服していくか。
 それはまさに自分自身が努力していかなければ
ならないことです。

 剣豪の宮本武蔵は、「仏神を尊べど、仏神をたのまず」
とかつて述べています。
 八幡大菩薩、タケミカズチノミコトなど、武道を
御加護される神様は日本の歴史に昔から登場しますが、
ただ拝んでいれば勝てる、信じていれば死なない
などというのは、六十数回も真剣勝負を行って
生き残ってきた超現実主義者の武蔵からすれば、
全く意味のないことだったのでしょう。

 しかし、だからといってこれを疎かにすべからず、
常に敬意を払うべしと、前面否定をしないところが、
死地を何度も切り抜けてきた境地にある人間の、
本当の悟りなのかもしれません。
 おそらく武蔵にとっては自らの死さえも仏神の
与えたるもと割り切っていたのでしょう。

 もしかしたら、天下無双の剣士でありながら、
将軍家はおろか、どこの藩にも剣術指南役として
就職することができず、無敵の名と引き換えに、
常に命を危険にさらして生きることになった、
不遇の剣客である武蔵にとっては、生きること
自体が試練の連続であったのかもしれません。

 さて、TVタレントのタモリ氏の名言というの
が数多くあって、その中のひとつに
「自分の中で『これくらいの力がついたらこれくらいの
仕事をしよう』と思ってもその仕事は来ない。
必ず実力よりも高めの仕事が来る。
それはチャンスだから、絶対怯んじゃだめ。」
というものがあります。

 すばらしい名言です。まさにその通りです。
国民的な芸能人として成功を収めた人の
言葉だからこそ、なお重みがあるのかもしれません。

 そして、大きなチャンスに挑む事も試練ですが、
逆にチャンスが来ないことも、また試練であります。

 誰にだって、どうしていいのか全くわからなく
なってしまう時があります。前にも後ろにも進めない
状況になってしまう事は数え切れないくらいあります。
小生もそうでした。絶望にしゃがみこんでしまいたい
ことだって何度もありました。現実に背を向けたまま
生きていければ、どんなに楽かと思いました。

 でも、そんな時こそ、それを試練だと思って
周りに惑わされず、地道に自分の信じる道を
一歩一歩進んでいける我慢強さが必要です。

 いや、そこに必要なのは、実は我慢ではないのです。
それは「覚悟」なのです。「我の進む道は、唯この道なり」
という決心なのです。

 いろいろな試練の中で、負けないで挑戦していく心、
意地を噛んでがんばれる心。これこそが剣道の稽古の中で、
一番に子供たちに学んで欲しいことです。

第115号「若さとは、強さとは」

 先日は全日本剣道選手権が東京でおこなわれました。
仕事中なのにインターネット中継を夢中になって
見てしまいましたが、すばらしい試合の数々を堪能しました。
一流選手の試合は見ていても緊張感がこちらまで伝わってきます。
つい、息を詰めながら、すっかりその気になって
見てしまいました。

 スポーツとしてはマイナーなのに、実に愛好家が多く
国営放送でもちゃんとニュースになりますからね。オリンピック
競技ではなくても剣道というのは、日本人にとっては
特別なものなのかもしれませんね。

 優勝したのは35歳の全日本チームの代表選手で
昨年に続いての連覇です。史上二人目の二連覇じゃなかったかな?
(ちなみに、史上初もこの選手も神奈川県警の選手です。)

 35歳というのは、他のスポーツだとそろそろ引退する年齢ですが
剣道は武器を使いますから、その習熟度を考えると、トップ選手の
年齢がやや高いというのも納得できる話です。もちろん体力も必要で、
今大会は史上最年少の学生選手が出場したことも話題になりました。

 つまり、剣道というのは技と体力と気力がバランスよく
というよりも、それぞれを補いながらそのときのベストで
戦うことは要求されるのだと思います。
 
 往々にして若い選手はよく動きます。すばらしい体の動きで
反射神経やバネには驚かされます。どんな体勢からでも技を出して
来ますし、瞬発力を使って、遠くから飛び込んできたり
体力のものを言わせて押し込むように攻撃するシーンも
よく見られます。

 確かに、刀の動きではない部分もあるかもしれません。
それは熟練者の技の冴えには及ばないかもしれません。
しかし、若い選手はあまりそんなことよりも、ここ、という所で
どんどん動いて技を出していく方が現代の剣道的には良いと思います。
それが若いときの戦い方だからです。

 さて、剣道もしかりですが、若い時にしかできないことは
たくさんあります。それは、若い時にしかできないことなのではなく、
若いからこそできるのことなのです。

 たとえば、色々な無茶やな挑戦や、不安定な日々を送ることは
別に若くなくてもできます。しかし、若いうちは、その中に
無限の未来を見出すことが可能なのです。

 若いうちに無茶をしなかった人は、もしかしたら
そんな無謀さに憧れるかもしれません。
また、それを馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。

 若いときの無茶や冒険を、年齢が上がってから行うことは、
常に高いリスクがついてまわるものです。怪我もそうですし
自分の周りの環境がそれを許さないかも知れない。
家庭もあれば、金銭的な事情だってあるでしょう。
だから、若い時にしかできない事は、若い時にすべきなのです。

 ただし、若い人の中には、それを自由だと勘違いする人もいるかも
しれませんが、ただ単に束縛から逃げているだけであれば
それは意味がないことです。
安きに流れること、そこからは何も学ばないからです。

 若い時に、不安定な日々を送りながら、未来を求めて色々なことに
挑戦してみるというのは、周りが思うよりずっとつらいことです。
周りに「働け、しっかりしろ」と言われても、だからといって
物事が急に改善するわけでもないですからね。

 そのことに思い悩むことは、もちろん大切ですが
それよりは悩む前に、今できることとを全力ですべきです。

 その時に全てを省みず、周りに何を言われても、
目の前の物に全力で取り組むことができること。 
これが「若いからこその強さ」だと思います。

第114号 「無心になれるか」

 無心という言葉があります。心を無にするという事です。

 剣道では、稽古の前と後に黙想をしますが、完全に心を
無にするという事はありません。

 無というのは思考を停止する事です。しかし、人は寝ている時
以外に何も考えないということはほとんどありません。
では、黙想をする時に何を思うでしょうか。

 よく行われている瞑想セミナーなどでは、心を無にして
と言う表現を使うのではなく、もう少し指導法を
学んだインストラクターから、無などではなく、
何かに集中をすること、たとえば、呼吸法をエネルギーの
イメージと一緒に行うという指導を受ける場合もあります。

 これは、心理学的には正しいのだと思います。しかし
哲学的には、これで全て正しいとは言えないのではないでしょうか。

 剣道では剣禅一致と言う言葉があります。剣の悟りと
禅の悟りは精神的な高みでいえば、限りなく同じに
近いということです。

しかし、最も基本的な部分では、片や知識によって真理を得る事、
片や戦い勝つと事いう相反する考え方が基礎になっておりますから、
これが同じであると考えるのはおかしいかもしれませんね。

 剣でいえば、相手を倒す技術と体力を身に着ける事が
陽であれば、構えあって構えなしと言われる、
臨機応変の自然体の心構えであることが陰であり
この二つが揃ってこそ境地であると言われています。

 その為には、厳しい修練を経て自信と体力と技術を身につけ
自分の身を捨てて、相手の全ての攻撃どころか、存在そのもの
を受け入れる心構えでなければなりません。

 一方、瞑想するということは、自己を見つめることです。
自己を見つめるためには、自己の存在について考える事。
すると図らずも、必ず他人とのつながりや、自分を取り巻く
環境について考えることになります。

 自分は何のために存在するのか。己は何者なのか。
自分の存在の意味を見つけるということは、この世と
自分のかかわりを見つけるということです。
自分を受け入れると同時に相手を受け入れると言うことです。

 ですから、この心を無にするというのは、何も考えない
という意味ではなく、全てに感謝し受け入れる気持ちの事です。
何物にもとらわれない自由な心を持つという事です。

 野に咲く花は、考えてはいません。でも全てを受け入れることで
この大自然に受け入れられています。そこに花としての存在の
意味があるのです。

 ですから、黙想の時は この自分はこの世界の小さき一部であり、
しかし、この世界が自分の中にあることを受け止めて下さい。

 やわらかい風や鳥の声、夜の空気や、響くせみの声、
こうしたものも受けいれ、感謝してみてください。
そのことをとても幸せだと思ってみてください。
自分もこの大きな自然の一部になってみて下さい。

 これが心を無にすることではないでしょうか。