第113号 「論語より…其の3/3」

「子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。」
(子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて
学ばざれば則ち殆し(あやうし))

 これは、物事を学ぶだけで自分で考えないと本当の知識は身につかない、
しかし、自分で考えるだけで師から学ばなければ独断的になり危険である
という意味ですが、前回の温故知新と共通している部分もあります。

 物事を学ぶというのは、人から教わるということだけでなく、
古い文献を調べてみること。(孔子の言う本来の意味は、為政者
として、時の政治や礼制、倫理を学ぶことでありました。)一方、
思うというのは、自分の頭で色々考えることです。

 師や書物から学ぶのは歴史の経過の経験を知識として吸収すること
によって疑似体験することです。しかし、それをただ実際に
実践しようとしてもうまくいかないことがよくあります。

 これは当然の事です。例えば師とは経験の過程、環境、体格、
性格、全く違います。ですから、全く同じプロセスで学習しようと
した時にどうしても理解できないことがあります。

 そこで、自分であれこれ考えて工夫し、失敗を恐れず色々な
事を試してみる必要があります。これこそが上達への道だと考えます。

 勝負に負けた。しかし、いつも同じ負け方をして、そのまま
終わっては進歩がありません。負けた原因を考え、次はどうしよう
こうしようと考えることに、大きな意味があると思います。

 そして、色々やっていると、段々分けがわからなくなってしまう
事があります。自分勝手になってしまうこともあります。
そういう時に、おかしな方向に行かないように暖かく見守り、
言葉だけであれこれ教えるのではなく、身をもって示してくれるのが
本当の師であります。

 他の上手な人を見ることからも、多くの事を学ぶことが
できます。その人の稽古に対する姿勢に心を打たれて、自分の道を
誤らないように気づかされる事も、また多くあります。

 つまりは、自分で工夫することと、人から教わることの
バランスをうまくとって両方を上手に生かすように
気をつけなさいということなのです。  

第112号 「論語より…其の2/3」

「子曰、温故而知新、可以為師矣。」
(子曰く、故きを温めて新しきを知る、以って師と為すべし。 )

「温故知新」という熟語の元になった言葉です。古い事柄について
再び考えた上で、また新しい事柄を知ること、そうすれば先生と
呼ばれるようになるだろう、という意味です。

 例えば、剣道においては、防具もルールも時代にあった物に
すべきだという意見はたまに聞かれます。現に、竹刀も壊れない
プラスチック製の物を作るのは今の技術では普通に可能ですし、
防具だってわざわざ紐で結ぶようなものでなくてもいい。

 技だって、競技化してフェンシングみたいに竹刀が触ったら
パッとライトがつくようにして、ビデオ判定を導入すべきだ。
わざわざ振りかぶって振らなくたって、体を鍛えて色々な
角度からいかに早く相手の体に触れるような練習をすべきだ。
気合だって出す必要はないんじゃないか、という意見が決して
無いわけではありません。

 実際に、日本以外の国で、知識や経験のある指導者が不足
している地域では、こういった傾向になってしまうことは
稀にあるそうです。

 しかし、これが剣道かと言われれば、現在大人で剣道の稽古を
している人は、おそらくほぼ全員が否定するでしょう。

 ただの固定観念ではないかといわれるかもしれませんが、剣道と
いうのは数百年もの歴史的な背景の上に成り立って現在に
至っていることを忘れてはいけません。

 確かに、現代のものは、素材など最新テクノロジーが用いられ
特殊素材での衝撃吸収、抗菌、消臭、通気性、軽さなどは
圧倒的に昔よりは安くて優秀なものを作ることができるようになりました。

 しかし、これらは以前から使われていた自然素材の持つ
優秀さを損なうことがなく、それを補完、もしくは代用する形で
使われているだけで、結局のところは、今でも100年ほど前の
デザインや仕組みからほとんど変わっていません。逆に言えば、
いかにそれまでの技術や工夫の積み重ね、天然素材が優秀だったか
ということです。

 技の体系も剣道の理念も、もとの「日本刀を使う」という
全ての前提となる観念があり、それに基づく技術や考え方が
あるからこそ、剣道という枠の中にうまく収められているのであり、
その為には自分自身がどうあるべきか、というところに行き着くのです。

 剣の道を修める者は「剣士」なのです。「ファイター」でも
「プレイヤー」でもありません。その剣士としての考え方は
師から受け継がれ、自分自身で悩み考えながら身に着けて
いくもので、これがなければいくら試合で相手の体に早く
竹刀を当てる技術や、ずば抜けた力、スピードがあったところで、
ただの競技者でしかありません。

 そして、これらの事は、自分の師や良き先輩方からの助言、
その後姿を見ること、また歴史を紐解くことによってしか
学ぶことができないのです。

 元々の動作の意味、動きの意味を理解した上で、最新の
スポーツ理論や人間工学、スポーツ心理学を取り入れながら
常に自分の剣道と指導に対する向上心を持ち続けること。
まさに「故きを温めて新しきを知る」であります。

 これこそが剣士としても、指導者としても大切な心構えでは
ないかと考えております。


追記:戦後剣道が禁止された時、占領軍への言い逃れ
に、「撓い競技」といって、剣道着を着用せず、竹刀を使って
声を出さずに相手の体にあてるという、学生向けの競技が
作られました。剣道の復活に伴い消滅しましたが、
これはまた次の機会に。

第111号 「論語より…其の1/3」

 今日は論語からの引用です。論語は儒学の祖、孔子の言葉であり
武士道にも大きな影響を与えました。数回に渡って、その為政篇より
引用してご紹介したいと思います。

「子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉捜哉、人焉捜哉。」
(子曰く、その以す所(なすところ)を視(み)、その由る所
(よるところ)を観(み)、その安んずる所を察すれば、人焉んぞ
捜さんや(かくさんや)。)という教えがあります。

 人の行いを見て、その行いの理由や、どのような信念に基づく
行いなのかを観察すれば、その人の人柄は隠そうとしても隠しきれない。
という意味だそうです。

 人の行動には必ず原因があります。その行いの原因を考えることは
とても大切です。他の方と竹刀を交える時、当然、同じ剣道なのに、
様々なタイプの人がいて、その行動は全く違う場合があります。

 もちろん、技術的な熟練度は当然のその人の年齢や、修行年数にも
よりますが、仮に同じ年齢で同じ段位、修行年数の人がいたとしても、
その稽古の中での行動は全く違うことが多々あります。極端に言えば
すべての剣士一人一人が違うと言っても過言ではないと思います。

 殆ど動かずに、打ち込まれても中心を攻めてくる人、
ひたすら隙をねらって左右からひっきりなしに打ち込んで来る人、
すべて徹底的に受けて技を返してくる人、親の仇をとるような激しい
勢いで掛かってくる人、柔らかくすーっと攻撃してくる人。
本当に人それぞれです。

 もちろん、普段の稽古と試合では全然違う人もいますし、試合上手な
人は、相手のタイプによって自分の戦術も変えていくことができます。

 しかし、稽古の中でその方の人柄というか、とっさの心の動きだけで
はなく、信念というものが自然に剣道に現れてくるのは、上に引用した孔子
の言葉をとってみれば、実に納得できることなのです。

 また、稽古以外でも、どんなに剣道が強くても、面をとってからの
一挙一同がとても残念な方がいるのも事実ですし、いくら勝てなくても、
一剣士として常に恥じない行いをしようと心がけていらっしゃる方は、
いわゆる下手でも上手も、自ずからその真摯な気持ちが稽古に出て
くるようになるのです。

 徹底的に勝負にこだわるプライドが高い方もいらっしゃいますし、
腰は低く物腰は柔らかいが、剣をとっては磐の様にどっしりとした方、
まっすぐで激しい気性そのままに、熱血な剣道をされる方、
勝ち負けにこだわらず、寡黙に自分の道を
ひたすら追い求めるような方、本当に様々です。

 ですから、自分の剣に普段からの心がけが出ると戒めがながら、
研鑽をしていくよう心掛けたいと思っています。