第103回 面紐

 剣道の面は長い紐を上から巻き付け、それを結んで固定します。
頭の後ろで結ぶのは小さい子供にとっては大変です。
なかなか難しいですが、練習していればそのうち出来るように
なりますので、とにかく焦らずに何度もチャレンジすることです。
小学校の1年生や2年生ではできなくても仕方がありません。
お父さんもお母さんも、気長に見守ってあげて頂きたいと思います。

 紐を結ぶという行為は高度な技術が必要です。指というのは第2の
脳と呼ばれているくらい、複雑な働きをするほか、指先の感覚も
私たちの生活の中で大切な役割を果たしています。

 多くの幼児の為の育児おもちゃは、その指先の感覚を高めたり、
様々な動きをすることによって、脳に刺激を与え、脳の発達を促す
ことを助長しています。子供の頃には、よく言われましたね。
靴の紐くらい自分で結べるようになりなさい、と。

 さて、防具の中で紐と呼ばれるのは、面紐と胴を付ける為の胴紐です。
色は一般的には紺(藍色)か白です。防具や剣道着に合わせて色を変える
場合もありますし、たとえば小学生や級は全員白で、それ有段者以上は
紺とか、段位などによって色を変える道場もあるそうです。

 確かに赤い面紐とか緑の面紐とか売っているのを見たことがありますが、
つけている人は見たことありません。(新撰組の土方歳三は赤だったそうですが。)
 個人的には子供なら稽古では好きな色を付けてもいいと思います。
ただし、試合規則では白か紺に指定があるはずです。

 さて、これらの紐は良く見ていただければお分かりと思いますが、
普通のロープのようなものではなく、編み上げてある組み紐です。日本の
伝統的な組み紐は丈夫で多少の伸びがあっても滑ることがありません。
着物の羽織紐や帯紐のように、昔の鎧兜にも組み紐が使われていました。
身分の高い侍にとって、鎧兜は体を守る道具というだけでなく、強さと
権力を誇示するものでしたから、組み紐もカラフルなものが使われていました。

 しかし、時代が下って剣道が学校教育において正課となれば、当然
華美なものではなく、また低予算な白いものが採用されるのは当然であり、
また上級者は剣道着と同じく藍で耐久性を持たせたというのが色がついた
理由のはずですから、質実剛健であるべきだと言う意見は当然の事ですが、
子供だったらこれくらいの楽しみはいいのではないでしょうか。

第102回 戦うこと

 前回、剣道は宗教と似ている、というお話をさせて頂きました。

 現代の剣道はの目的は、本来の大きな目的である「相手を殺傷する技術」
を習得する所とは完全に違うところに理念を置いています。
 
 では、なぜ戦うのか。

 人に慈悲を施せと言いいながら、相手を叩くのか、というのは
矛盾している様に見えますが、これは乗り越えなければならない
苦難だと思うのです。

 目の前の相手と白刃を交えて戦うということは、自分が死に直面
しているということです。死ぬかもしれないときに、余計な事を考え
る人はいません。実際に日本刀が自分の頭の上に落ちてくる瞬間という
のは、おそらく本当に怖いものです。剣道形ですらそうなんですから、
実際の斬りあいなんてのは、それこそ「必死」で戦わなければ生き残れない
でしょう。

 生きることに固執することは大切です。人間の存在の根本を成す部分
です。しかし、それと同時に、生きるために固執を捨てなければならない
というのも剣道の修行の一つのテーマです。

 死ぬことへの恐れと言うのは、自分の持ち物に固執することでも
あります。自分の肉体、名声、財産、家族、友人からの離別に対する
恐れです。しかし、死ぬか生きるかをかけて戦うときに、そんなことを
考えている暇はありません。

 その瞬間に、見えてくる真実があるのかもしれない。全てを削ぎとった
自分自身として、自分とどう向かい合う事ができるのか、明日無くなる
かもしれない命だからこそ、他人や社会とどう向き合うことができるのか。

 そういった事を考える機会というのが、平穏な日常生活の中では
ありません。特に、私たちのように恵まれた社会に生活していると、
そういうことは見逃しがちになってしまいます。

 もちろん、戦うことが全てだというのではありません。実際に戦争
で銃撃戦の中で生き残った人達の全てが人生の価値を学び、立派な哲学を
もっている訳でもありません。しかし、多くの人は生きる残ることの
意味を見出しています。

 実際に今でも激しい戦争をしている国の人に、話を聞いたことが
あります。軍曹から大佐にまでなった人です。この人に、戦場で
人を撃つのはどんな気持ちですか、と聞いた時の答えです。

「戦場では、物陰から誰かが出てきてこちらを銃でねらっている。
撃たなければ殺される、だから撃つんだ。それ以上考えたら、気が狂う。
一緒にくだらないジョークに笑いながら仲良く朝食を食べた友人が、
その夜にはもう帰ってこないんだ。戦場はそんなところだよ。」

 そんな中では、生きる意味を考えることすらできないでしょう。
帰還してからも、多くの兵士が精神的なショックから立ち直るのに時間が
かかるといいます。しかし、皆が確実に理解するのは、いかに人間が
簡単に死んでしまうか、ということ。そして、殺されることが、また
人を殺すと言うことが、どういうことなのか知るということなのです。

 だから、実際に殺し合いを経験してきた人には、竹刀で戦うなんて
事は、所詮はお遊びだと言われるかもしれません。

 剣道は怪我をすることが無く、安全に戦うことができます。稽古で
命を落とすことは、まずありません。現代では、相手を斬る必要が
なくなったからこそ、心での戦いを重視するようになりました。
これは、武道としてもスポーツとしても、剣道が一つ飛びぬけた
レベルにある証拠です。

 しかし、その昔は、本当に斬り合う事を前提にした稽古でしたから、
竹刀を刀だと思えば、竹刀で叩かれることを斬られることだと思えば、
そして、それだけ真剣に稽古をすることができれば、本当に生きる
ことの意味を考えられるかもしれません。

 そして、いつかこういう事を考えられる年齢まで、子供たちには
剣道を続けて欲しいと思っています。

第101回 剣道と宗教

今回も割とタブーな話題の「宗教」についてのお話です。

 多くの日本人は「あなたの宗教は」と聞かれると
定期的に教会や神社仏閣などに礼拝や修行、祈祷などに行かれる方以外は
「特に宗教はありません」
「うーん。正月に神社に行くから神道かなあ」
「仏教ですね。実家のお墓はお寺にあるからねえ」
というように答える方が多いようです。まあ、これは歴史的な
背景から非常にマイルドな宗教観を持っているのが普通だと
いうことでしょう。新年は神社で、葬式はお寺、結婚式は教会
という方も実に多いですからね。

 しかし、このことに目くじらをたてて「実にケシカラン!」
なんていうつもりは毛頭ありません。

 ただ、たとえ、それぞれが違う信仰を持っていても、持っていなくても
心に崇め敬う精神そのものがあれば、また神の存在や仏の言葉を信じなくても、
他人を思いやる心があれば、それはそれで良いと思います。

 宗教は扇によく見立てられます。骨が分かれていても、最後は
同じところに集まる。宗教の高みというのはそういうものでしょう。

 さて、剣道は「道」ですから、極端に言えば宗教の「信仰」という
部分と似ている所があるかもしれません。
 待て待て、また何をおかしなことを言い出すんだ、とおっしゃる方
がいらっしゃるかと思いますが、では、「宗教」とはなんでしょう。

 宗教における信仰の目的とは、信仰の対象によっても違いますが、
多くの場合、それは「救い」であると考えるられます。また、古い
歴史を持つ精霊信仰に近い宗教は「恵み」であると考えられます。

 現代では、「宗教などは、権力者の洗脳である」と考える人もい
ますし、その反対に、日本には少ないかもしれませんが、他の国では、
宗教を自分の人生そのものだと考える人も大勢います。

 でも、そんなに哲学的な、人の存在の意味や罪について考えたりする
ようなことはなくても、病気になった時に治して欲しい、また困った
ときには助けて欲しい。心に安らぎが欲しい。大いに結構です。
苦しいときの神頼みがあるからこそ、やっていける時だって人生には
たくさんあるんです。

 私自身は宗教というのは、最終的には「どう生きるか」という事に
尽きるのではないかと考えています。それは、他人に対する慈悲を
持って、他人と共に生きてゆく事、自分を生かしてゆく事です。

 時には力や意思の強い者が先頭に立って引っ張っていかなければ
ならない事もあるのは当然です。しかし、会社の経営だって、ただ単に
利益の追求だけでなく、会社の製品やサービスが、社会全体の利益と
人々の幸せの向上に役立ち、そこで得た利益が社員や社会に還元
されるようにと言うのが、多くの良い経営者の理念です。

 そういった意味では、剣道の厳しい稽古を乗り越えることで得る
強い心を、今度はどのように社会に還元していけるか、すなわち、
社会の中で、他人とどう関わりをもって生きいくか、自分は何を
しなければならないのか、という事について考える機会を得られる
事が、剣道が自分にとって単なるレクリエーションのスポーツで
はないと考えられる理由です。そして、子供たちや、剣道を始めた
ばかりの皆さんにも、剣道を通じてそういうことを考える機会を
持ってほしいと思います。

 宗教の「宗」という字は屋根と祭壇をあらわし、先祖を祭るとか
同じ一族、その団結の中心という意味の文字ですが、それが転じて
中心となる考えという意味もあります。「教」は子供と交流する、
つまり大人から子供に知識や経験を引きつぐという意味です。

 ですから、競技として若くて体を動かし、競い合うことだけを
目的として考えれば剣道は、実にたのしいレクリエーションですが、
そこに生きることの意味を考えることができれば、それは哲学を
持った思想であり、それこそが次の世代に残していかなければ
ならない立派な「道」であるのはないでしょうか。

 私の意見は、宗教的な解釈に相違を感じる方にとっては、
もしかしたら違和感があるように聞こえるかもしれません。
しかし、少しでも考えて頂く機会になれば幸いです。

第100回 天命

 剣道は、その修練を通じて人を磨くことだと信じています。
 しかし、時々ジレンマに感じることがあります。それは、剣道の
剣は刀ということなのです。当然の事ですが、刀は人を斬る道具
です。斬るなどと言うとカッコよく聞こえますが、それは人を
殺傷するということです。

 そう、極端に言えば、剣の技術と言うのは、その殺し合いの為の
攻防を身に着けることです。その技術を子供たちに教えているの
ですから、そう考えれば非常に複雑です。

 例えば、実際に刀を使って切れそうなもの、野菜でも枝でも竹でも、
何でもいいから、とりあえず斬るだけだったら、コツがわかれば
それほど難しくはありません。

 しかし、その刀で実際に人を斬る事をイメージしてみて下さい。
自分の刀が相手の体に食い込み、皮膚が絶たれる、その刀から手に
伝わる肉と骨を絶つ衝撃を。相手が鮮血の中に倒れて沈んでゆく
瞬間を。その瞬間の相手の目を、断末魔のうめき声を。

 そして、それは相手が刀を持っていれば、当然自分にも起こり得ることです。
少し刀でかすられただけで指や耳がポロポロと落ち、斬られば刀が
自分の体が二つに断たれ、死の訪れを待つ、長い長い一瞬を迎えるのです。

 しかし、今はもはや刀をとって斬りあうことなどはありません。
ただ、先人が、その命をかけて技を磨いた修行の厳しさを、現代の
人間の育成に応用することができると信じております。

 私は、前世や占いなどは、お遊びくらいにしか信じないのですが、
その昔、前世が見えるという人から、私が江戸時代に、ある戦いの
集団の中に身を置いていたと言われたことがあります。
 また、別の人によれば、ある時代ではお坊さんだった事もある
そうですし、他の時代では剣術を教えていたこともあるそうでが、
うーん?かえってなんか怪しいなあ。ゲームセンターの前世占い
では、イギリスの貧しい農家に生まれた医者だったのに。(笑)

 まあ、とにかく、そんなことはあり得ないと思っていますが、
もし、仮にそれが本当だとすれば、私はかなりの人を日常的に斬殺
したことになります。映画や小説のように毎日ではなくとも、少なくとも
週に一、二度は白刃を振り回す捕り物があったり、斬首の斬り手や切腹
の介錯を行ったかもしれません。

 そんな、血塗られたこの手で、今度は多くの子供たちを導くこと。
多くの命を奪った剣で、今度は多くの人を救うこと。もし、それが
私のこの世で課せられた使命であれば、私は子供たちに魂を救われて
いることになります。
 
 だから、前世なんてものがあるかどうかはともかく、私は子供たち
を剣道で正しい道に導かなければならない。そのために、自分の剣道の
修練に励まなければならない。そういう機会を与えて頂いたのです。

 私は決して強い剣士でも、高名で立派な高段者の先生でもありません。
しかし、私は自然の流れで、言いかえれば何かに導かれるように、
子供の剣道の指導をお任せいただくことになりました。

 オーストラリアに移住をして以来、不思議なご縁で現地校の教師
となり、それがきっかけでパース補習授業校の教師となり、そこで
その場所が移転して、現在の体育館が使えるようになりました。
そして、今クラブを支えて下さっている多くの剣友や先生方、
多くの子供たちや保護者の方々と出会うことができました。

 まさか、オーストラリアのパースで子供の為の剣道教室を始める
ことになるとは、親兄弟も友人も、また私自身ですら、誰ひとり予想を
しなかったことですが、これが私の「天命」であるならば、ますます
自分自身の剣の道に精進していかなければなりません。

 これが、私の行く道であり、剣の修行だと思っております。

 パース桜剣道クラブ通信も、今回で100号となりました。一回の
お休みだけで、あとは毎週発行で2年以上続けてまいりました。ここ
までくるのは、本当に振り返ればあっという間でした。ひとえに多く
の支えて下さる皆様方のおかげです。心から感謝します。

 今後ともパース桜剣道クラブ通信をよろしくおねがいします。

第99回 フォース

 以前の記事に関して、こんな質問を頂きました。

「さて、剣道で「フォース」を使っても良いのでは・・・?
私が言う「フォース」とはいわゆる「気」のことなんです
けど・・。剣道で「気」は語られているのでしょうか?」

 お答えします。剣道では、厳密には、

1.フォースを使って相手の首を絞めること。
2.フォースを使って相手を場外に飛ばすこと。
3.フォースを使って相手の竹刀を折ること。
4.フォースを使って観客席のイスなどをぶつけること。

試合においては上記の他に

・ フォースを使って審判の判断を変えること。
・ フォースを使ってストップウォッチを止める事。

以上が反則です。双方がフォースを使えたとしても駄目です。

 ま、スターウォーズファンの小生としては
当然のことながらこう言った回答になりますが、
冗談はさておき。

 剣道において気の話は当然ありますが(過去の記事参照)
気というのは意外と曖昧な概念なんです。
もっとも近いのは「心」だと思います。

 「気合」って言葉がありますよね。声を出す事や
根性出すことだと思われてますが、実は読んでのとおり、
「気持ちを合わせる」なんです。

 剣道の場合は互いに掛け声かけますよね。「ヤア」って。
あれはお互いのモチベーションが同じく十分なのを
確かめあってるんですね。まずは、気持ち比べです。

 それから、自分の気持ちを奮い立たせる意味もあります。
「忍者は声なんか出さないよ」「格闘技で声は出さない」
と言う方もいらっしゃいますが、では、なぜ何百年も
意味のないことが受け継がれているのでしょうか?
 戦場で命を捨てて人を斬るのは、これくらい自分を
奮い立たせなければ、戦えなかったのではないでしょうか。

 声を出すのはもうひとつ、腹圧を上げる意味が
あります。腹圧をあげることで、余分な筋肉を硬くする
ことなく、重心を安定させようとすること、それによって、
打ち込む動作が、力むことなくスムースに行えるように
すること、筋肉の働きだけでなく、体の重心が動く力を
効果的に使用することが目的です。

 それから「気位」という言葉があります。
上手に勝とうとか、痛めつけてやろうとか、そういう気持ち
ではなく、ましてや過剰に攻撃的でもない。気高い、戦う
相手を寄せ付けないような、近寄り難い雰囲気。偉い先生に
なる条件だそうです。
 確かに、構えただけで「参りました」って思う先生は
たまにいらっしゃいます。

 でも、剣道での呼吸法は、ちゃんとあるんですけど、
太極拳やヨガで語られる様な丹田呼吸法に出てくる
「気」みたいなものは、それほど頻繁には語られません。

 だから、少しづつ色々な武道をかじっただけの人の中には
「剣道は奥深くない」という人も稀にいますが、
ハッキリ言えば、こんなものはどんなスポーツにだってあるんです。
ただ、自然に体の動きのなかで、合理的に行っているだけで
それを、子供の時から教わらなくても出来た人が天才と
言われる人達なんです。

 いかに呼吸を整え、効率よく体に酸素を送ることが出来るか、
また、心を落ち着けることができるか。そういうことです。

 気で相手を吹っ飛ばすとか、触らないで投げるとか
ああいうのは、私は個人的にはインチキだと思っています。
(相手の気を感じて、自分から跳んでしまう事や
あえて技をかけられるという事は練習ではあります。)
 ましてや、気で火をつけるとか、断言してもかまいません。
こんなものは、すべて、インチキだと思っています。

 しかし、驚くことに、本当に名人の場合は、相手と気持ち
が合えば目で相手を制したり、動きをそらしたりできる
という人もいるようです。

 ただし、動物と初心者には効かないそうですが。(笑)