第74回 勝負

剣道では試合があります。試合には負けても構わないという人もいますが
負けていい試合はありません。負ける為に稽古をしているのではありません。
 全力を尽くした末に負けて、後悔は無いという試合はあります。それでも
勝てた方がいいに越したことはありません。

 試合は稽古のモチベーションを上げる為、自分の実力を試す為には
必要ですが、もし、剣道の修行の目的が試合に勝つことのみであっては、
おそらく剣道はとってもつまらないものになってしまうと思います。

 もし、年齢が上がってスピードや技術と体力を競う若い人たちの試合で
活躍できなくなったら、その人は剣道をやめてしまうことになります。
 たとえば、地稽古や円陣稽古などは、基本で習った技を試す機会で、
試合はその稽古で身に着けた技を試す機会です。勝っても負けても、
それを自分のレベルアップへの糧とすることが一番大切です。その為には、
試合はとてもいい稽古です。試合に出ることによって、普段の多くの事を
学ぶことが出来ます。

 つまりは、試合も剣道を職業にしている警察官のような方達で、試合の結果が
が職場での身分につながるような、厳しい結果を求められる人以外にとっては
試合も所詮は稽古のひとつなのです。

 逆に、中には完全に試合を否定してしまう人もいます。確かに、剣の技術を
精神修養だと考える人の中には、竹刀で速く打ち会うことは本位ではないと
する人もいます。

 高段者といわれるレベルになれば、次元の違う部分で戦うと言われています。
自分の心が動じないか、相手の心が動いたか、相手の剣先を制したか、自分の剣や
気が相手を制したか。

 こういうレベルの稽古では、ただ竹刀が当たるだけでは絶対に良しと言われま
せん。また、自分の竹刀が当たっても、相手との関係の中で成立していなければ、
自分でも納得の行く一本をとったことにはなりません。

 ただし、このレベルに行くには、まずは持てるあらゆる技術を使って全力で
戦う経験が必要です。厳しい稽古を重ねている人が、長い間の修練の結果として
今の試合形式を否定するのであれば、それは良いと思いますが、机上の空論の
中で否定するのは、如何なものでしょう。
 勝負ですから、必ず勝ち負けはあります。しかし、大切なのは目先の
勝ち負けに惑わされることなく研鑽を積むべきだという事だと思います。
また、勝っても負けても、おごる事ったり諦めたりすることの無いように
日々研鑽することが大切だと思います。

 ま、本音は勝てばうれしいですし、負ければ悔しいですけどね。
これが次の稽古の糧になるのです。

第73回 蹲踞

 剣道で、礼をした後で、前に進んでから、背筋を伸ばして構え
相対しながら踵を上げてひざを浮かせたまま、足を開いてしゃがみます。
これが「蹲踞(そんきょ)」の姿勢です。剣道以外では相撲で今でも
見ることができます。

 蹲踞と書いて「つくいばい」と読むこともあります。茶庭に置かれる
手水鉢を中心とした石組みで、茶会の際の手を洗うとされる場所ですが、
元々の意味は「蹲(つくば)う」つまり「しゃがむ」という言葉を語源
にしており、身をかがめて手を洗う動作から来ています。

 元来、蹲踞というのは座礼のひとつとされています。神前や、
身分が上の人に対して屋外で礼をする動作のひとつが起源である
ということになっています。
 相撲の起源は神事である為、蹲踞する時は神様に対しての礼や、
神様から何かを賜る時の動作が元来の意味です。

 茶庭の蹲踞も、手だけではなく心身を洗い清める、そんな場所
から発達したものではないでしょうか。
 
 さて、よく論争になるのが「剣道に蹲踞は果たして必要なのか」
という意見です。
 剣道ではまず立礼をします。最初に礼をして、そして更に、
また座って礼をするという動作の意味はどこにあるのでしょうか。

 多くの方が研究されているのであまり詳しくは書きませんが、
つまりは元々剣術の稽古は屋外や土間で稽古するのが一般的であった為
袴が汚れない様に、起座や座礼が膝を突かない動作になったという説
が有力です。

 現代の剣道が出来る前の古流剣術の流派で、試合前に蹲踞をして
木刀を構えた形で下に置き、座礼をする動作があります。
(時代劇でお侍さんが外でよくやる、片手片膝をついた礼を
折敷礼というのだそうです。)
 これが、膝を突いた座礼でなく、膝を上げた形での座礼となり、
それがさらに省略されたで蹲踞になったのではないかと言われています。

 すると、その前の立礼は更に後から付け足されたものではないかと
推測されます。同じ立場での会釈であれば立礼も有り得ますが
神前、領主、師、どれに対しても自分の方がはるかに立場が下で
あった場合、立礼というのは武士の場合(特にそれ以下の身分では)
まず有り得ないからです。

 そんな流れを経て、明治から大正時代にかけて現代の剣道の基礎が
作られた時に、礼法や諸々の所作を色々な流派から取り入れた為に、
だんだん解釈がわからなくなってしまったというのが本当のところでしょう。

 また、現代剣道は少年の体育文化教育の一環でもあった為に、蹲踞は
所作として形骸化し、お互いに礼から始まる事を、教育上求めたから
なのではないでしょうか。(ちなみに立礼の作法がが普及したのは
明治時代になって洋装での西洋式の挨拶が必要であったからだと
言われています。)

 さて、この蹲踞ですが、背筋や腰周りの筋肉を鍛えるには、とても
良い動作なんです。股関節も柔らかくなければ上手にできません。
 また、上手な人は、礼から3歩前に出て蹲踞してから立って構える
までの動作が実に美しい。肩の力が抜けて背筋が伸び、姿勢がまったく
崩れないのに、柔らかく動けるということは、その動作に長く精通して
いて、また筋肉もそのように発達しているということになります。
 信じられませんが、審査などでは、ここまでで大体の実力がわかる
という先生方も大勢います。

 ですから、元来の意味は消滅してしまいましたが、それでも
伝統的な文化の名残ということで、行うことに反対する必要は
無いのではないかと思います。
 
 ちなみに、韓国では剣道は「コムド」「クムド」と呼ばれ、戦後の
反日的な国内の背景に配慮して、日本的な部分を排除する為に、蹲踞を
無くして立礼のみとしました。色々あって大変ですね。

第72回 有効打突とは?

 お父さんやお母さんが子供の剣道を見ていて、もっとも理解出来ない事。
それは、試合での「一本」の判定基準です。

 剣道の一本の基準は、剣道を知らない人からみると、とても不可解です。
「え、あれ当たってるのに?」「え、どうしてアレが一本なの?」
と大抵の人は疑問に思います。

 現代の剣道に「有効打突」ということばがあります。試合で一本となる基準です。
全日本剣道連盟の剣道試合審判規則第2章2節12条に以下の記述があります。

********************************

第2節 有効打突

[有効打突]
第12条
有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、
竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。

********************************

 ですから、実際の試合ではこれを基準にして一本かどうかを決めます。
詳しく説明すると以下のとおりになります。

充実した気勢...  「気合」と「勢い」です。だまってポコンと当てただけでも
          一本にはなりません。

適切な姿勢 ...  つまり横から手だけ伸ばして曲がって打ったり、打たれない
          ように体を守りながら打ったり、よけながら打ってもそれは
          評価されません。

竹刀の打突部で... ただ単に棒でひっぱたくのではなく、刀を使う技術を前提
          として、竹刀の弦のちょうど反対側の刃にあたる部分の、
          さらにもっとも効果が増す先から1/3くらいの部分を
          使用して刃が垂直に当たる様に打ちます。
          (次の第13条に記載されています。) 

残心あるもの...  残心と言って打突の後の動作、無心で打ち切って
          体が止まったままになっていないか、相手に対して打った後も
          気を抜いていないか、敵対動作が出来ているかも評価に
          なります。また、何度も連続で同じ部位を叩いたりすると、
          刀法に適っていないと判断されます。

           打った後にすぐ打突部位を手で隠したりするような場合は、
          その前の打突が集中した捨身の打突ではないと判断されます。
          つまり、刀で斬り合いをする場合は捨身でかかる覚悟がなければ
          相手を倒すことはできない、という理解です。

 逆に言えば、子供の試合で今のはどうして一本じゃないの?という場合、以下の理由
が考えられます。

1.気合が聞こえない、もしくは小さい。

2.残心がない。その場に立ったままで打つ動作と気合が終わっている。

3.面金を叩いている。

4.竹刀の先か根元で叩いている。(打撃の効果が伝わっていない)

5.打突の勢いがなく弱すぎる。

6.相討ちである。


 また、反則事項もいくつかあります。たとえば、有効打突の後に相手を威嚇したり
敬意を欠くような言動や態度をみせた場合は、有効打突の判定が取り消しになります。

 簡単に言えばサッカーのようにガッツポーズを決めたり、ボクシングの様に
手を上げてアピールしたりというのは無礼な振る舞いとして、剣道では絶対に
避けなければいけないことです。

 これらの基準はシンプルに書かれていますが、経験がないとなかなか判断
できません。審判を一定以上の段位の者が行うのは、こうした剣道に関する見識が
なければ正しい一本の基準を判断するのは難しいからです。
 
 ちなみに、子供や初級者レベルの審判をする時には、あまりにも完成された打突
や強度な技術を求めることはできません。そのレベルに見合った完成度で判断する
ことになります。

 剣道では、審判の判定に対する抗議は非礼として一切受け付けられません。
だからこそ、審判となるレベルの剣道愛好家は、さらに自分の剣の技術と理解、
審判技術を研鑽することが求められます。

 これらの基本的な部分は剣道にとってアイデンティティーであり、剣道が国際化
しても変わってはならない部分だと、日本の多くの剣道家や愛好家は考えています。

第71回 下着はつけるか

 「昔から、袴の下にパンツははかない」とパンツをはかない人がおります。
こういう方は男性に多いです。小中学生は「はかない率」も落ちると思いますが
高、大学生、社会人の方にはまだまだ多いようです、そして女性はほとんどの方が
下着をつけていらっしゃるようです。

 しかし、かく言う私も高校までは下着を履かない派でした。
なぜかというと、柔道などの格技では特にトランクス式の下着だと伸縮しない
タイプが多く、伸縮しないと投げられるときに締め付けられて酷い怪我を
するといわれておりましたし、それに、やはり夏は暑いからですね。

 しかし、ある先生が
「もし怪我をした時に、病院で袴を脱がなければならないことが
あるかもしれない。その時に下着を着けていないのは医者や看護をして
もらう人に失礼である」
とおっしゃっておりました。
 確かにその通りだと思いましたので、私も考えを改めて、下着をつける
ことにしました。

 さて、「昔は着物だからパンツははかないんだ」と言う方もいらっしゃい
ますが、ちゃーんと男性はフンドシと呼ばれる下着をつけていました。そこで、
私も褌をつけてみました。(想像しないで下さい。)褌と言っても、お祭り
などで履くビッとした六尺ではなく、略式の越中褌です。

 実はこのふんどしが結構良くて、晒し木綿を使ったものですと
汗の吸収もよく、洗っても乾きやすい。袴の下着用するには実に優れた
下着でありました。

 ただひとつの問題は、パッと体育館の隅で着替えたりする時に
下着まで脱いで着替えるのが、ちょっとはばかられる事と
稽古が終わった後で、すぐに着替えなければいけないとき、
ジーンズなどの下に褌をはくのが、あまり使用感が良くないということです。

 それ以外は実に快適でした。しかし、あまりにも愛用しているうちに
ボロボロになってしまい、ストックも底を尽きてしまったのと
急いでその場で着替える事があまりにも多いので、面倒くさいのとで
今は夏の暑いときの稽古にたまに着用するくらいです。

 褌は戦後しばらく後までは普通でしたが、その後はお祭りの時と着物を
着る人以外は、ほぼ完全に廃れてしまいました。私の周りでも、知って
いる人で褌をしめていた人は、お寺の住職で仕事柄毎日着物を着ていた
母方の祖父くらいでした。

 しかし、今は着物ブームで隠れた愛好家も増えているそうでインターネット
でも購入できます。専門店もいくつかあります。柄も豊富な柄で、
なかなかおしゃれな柄がそろっています。

 ですが、侍の死装束は白です。戦に臨む時は派手な鎧や着物で着飾っても
下には新しい白襦袢と白い褌を締めて戦に向かったといいます。
 お祭りの時は、派手な褌で神輿を担ぐのもなかなか粋だとは思いますが、
剣道で褌を締めるときは、侍の様に古風に純白な褌で望みたいと思うのは
私だけでしょうか。