第46回 武士の言葉

 今のテレビの時代劇は、多くの視聴者が理解できるように
ほとんどが現代の言葉に直されています。

しかし、それでも聞きなれない言葉がたまにあります。
偉いお侍が家来に「これこれこうか?」とたずねた時
家来は「御意(ぎょい)」という返事をします。
「おっしゃる通り」という意味です。

 謝辞も、昔は
「かたじけのうござる」
「ありがたき幸せに存じまする」
などですね。
「恐悦至極に存じ奉りあげまする」は、
もはや日常であまり使う機会はありません。。
(言われて見たい気もします。
できれば俳優の高橋英樹氏や松方弘樹氏の声で。:笑)

 話す相手の奥さんを「お内儀」なんて今は聞きませんし
相手を罵倒する時に「無礼者!」「不届き者!」「おのれ、ちょこざいな!」
うーん、使ってみたいですね。

 しかし、今でも十分に馴染みのある言葉も多くあります。
「左様でございますか」(そうですか。)
「痛み入ります」(深く感じ入ります、恐縮です。)
などは今でも普通に使いますよね。

 さて、現代の剣道は、それまでの木刀で行っていた剣術の稽古を
安全化した稽古方法を源流にしていますから
指導の用語はすべて現代の言葉ですが
用語には現在ではあまり聞きなれない言葉もあります。

 例えば「鎬(しのぎ)」「切先(きっさき)」「刃筋(はすじ)」など
刀の部位に関する言葉は、実際に竹刀にはありませんが
竹刀は刀の代用であるという前提で使われる言葉です。
指導で使われる「円陣を組みなさい」「先生に掛かりなさい」
と言う言葉もあまりつかう機会は無くなりました。

 武士にに関連する言葉では
現在でもよく使われる言葉がたくさんあります。

 例えば刀の部品で切羽という言葉を使った
「切羽詰る(せっぱつまる)」
や、先ほど触れた鎬という言葉で
「鎬を削る(しのぎをけずる)」
などは、激しく刀を打ち合わせて
ギリギリのところで斬り合う姿から生まれた言葉です。

 また、あまり言うことはありませんが
表現としてたまに使われるのは
「おっとり刀で駆けつける」
「勝って兜の緒をしめよ」
「諸刃の剣」
「武士は食わねど高楊枝」

 また、恋愛絡みであるのが
「恋の鞘当て(さやあて)」
「恋敵(こいがたき)」
で、鞘を当てるのは無礼な行為で、争いの発端になりましたし
敵討ちというのは武士階級のみに許された行為でした。

 他にも色々ありますが
意味は既にいろいろなところで解説されているので
興味がおありでしたら「真剣に」調べてみて下さい。

第45回 後を濁さず

 ある試合会場で、試合が終わったあとで
チームの控えの場所に、けっこうゴミが目に付きました。
自分のチームの所にも皆が帰った後にゴミが少しあったので
せめて自分のチームの場所だけでも、と
私ともう一人の先生でひろって片付けました。
すると、見ていた後輩も手伝って片付けてくれました。

 私は、これが剣道だと思います。

 剣道では残心(ざんしん)と言って
打った後に、自分の心に隙を作らず、
また自分の打突に対する真っ直ぐな心を示します。
というお話を以前に書かせて頂いたことが
あったと思います。

 その打突が、例え相手に当らなくとも
素直な気持ちでしっかりと残心を見せる事は
剣道においてとても大切な事だと思います。

 ごみを散らかしっぱなしで去るということは
打った後に残心も示さず礼もせず、
そのままスタスタと相手に背を向けて
離れるということです。

 試合に勝とうが負けようが
剣道が強いとか弱いとか関係ありません。

 逆に、そんな事が出来ないのに
ただ人に打ち勝つことが出来る技術ばかり磨いて
一体どんな意味があるのでしょうか。

 できる範囲でもいいから自分のことをきちんとすること。
誰も見ていなくても他人に感謝する事。

 まずは指導者として自らが
一番気をつけなければならないと思っている事です。

第44回 座礼

 剣道に限らず、日本古来の武術では
立礼(りゅうれい)と座礼(ざれい)があります。
座礼には起座という座り方などもありますが
代表的なのは正座をしての礼です。

 しかし、同じ正座にしても、
武道や他の伝統的な儀式(茶道や仏事)などによって
座るまでの経過が全く違う事があります。
例えば、弓道と剣道でも座るまでの経過が違いますし
同じじ武術でも流派によっては
全く違う場合もあります。

 また、甲冑を着ての立ち振る舞いと
着物に羽織袴での立ち振る舞いでは違って当然です。
また、長い武器を持つか小さい武器を持つか
屋外か屋内か、戦場か誰かをお迎えする席なのか
色々な場面に即した礼法があるのは
当然だと思います。

 手を前につく動作の意味には諸説あります。

 戦国時代にお辞儀した時に上から
後頭部をとっさに踏みつけられても
顔を守れるからという説や、
両手を床について前に見せているのは
武器を持たない事の証明であるという説などです。

 しかし、重く大きな鎧をつけたままでは
正座をして顔の前の床に手を置いて
相手に礼などはできません。
それどころか、そもそも正座が出来ません。

 それに、例えば拝む時の僧侶の礼は
顔の前に手を着いての礼ではありませんよね。
数珠持ってますからね。

 現代では、座礼、立礼共に多くの種類があります。
座礼では手を前に着かない礼もありますし
それぞれ手の位置と頭を下げる深さが違うのです。
ただ、ここまで細分化されたのは
比較的新しいしきたりだと思われます。

 飛鳥、奈良時代と他の国々から色々な文化と
しきたりがもたらされましたが、
これは貴族や僧侶など一部の人たちのものでした。

 そして、平安から鎌倉時代には武士が台頭し、
武勇を暴力にしないための
人を律する礼法が生まれました。
また、武士が貴族に取って代わる
上流階級への台頭のための礼法でもありました。

 戦国時代には、力関係や主従関係を示すための
また自分の力を誇示するための
戦う者の為の礼儀作法が生まれました。

 しかしながら、時代が下って
江戸時代の段々平和な時代になると
幕末期になるまでは
甲冑を着て戦支度をする機会は
ほとんどなくなりました。
したがって戦う者としての礼法も次第に
武家としての形式的な洗練さと知識を
表すものと成りました。

 この発祥は元はと言えば城中での振る舞いです。
城中で刃傷沙汰を起こすさせないためです。
城中でも常に裃に長袴です。長袴であぐらはかけません。
こうして、屋内での礼法は次第に
正座をして顔の前に手をつく礼となりました。

 いよいよ、幕末になると近代兵器の発達によって
白兵戦用の古来の鎧兜は役に立たず
ヨーロッパ式の兵術に洋装が取り入れられましたから
武家としての意味がある立ち振る舞いは
平民の物として形式化して行きました。

 やがて、明治時代には国民の品格を向上させるため
礼儀として正座をすることが奨励されました。

 そして、現在では畳の上や床に座って
座礼をする機会は圧倒的に少なくなりました。
長い時間正座をする事もなくなりました。

 しかし、正座をしての礼は
日本人として身に着けておきたい事です。
姿勢を正すことで自分の心を正すと同時に
その中で、私たちの祖先の織り成してきた
様々な生活様式の一部を学ぶことができるからです。

第43回 三つの許さぬ所

「三つの許さぬ所」と言う剣の教えがあります。
逃してはならない攻撃の機会が三つあるという意味です。

1.居ついた所、
2.出ばな
3.技の尽きた所

 これらが主に三つの機会であります。
これらは剣道だけではなく、他の格技、対人スポーツ
人間関係、さらにはビジネスにまで応用が出来ると思います。

 一つ目の居ついたところと言うのは、
相手が攻撃の機会を逃して、反応が出来なくなった、
もしくは迷いが生じて動きが止まった時です。
いわゆる「隙」が出来たところです。
反撃の機会を許さない、一気に行う攻撃です。

 二つ目の出ばなというのは、
出鼻をくじくと言う言葉にもあるように
相手が技を出そうと、動作を起こす瞬間を打つ事です。
人間は動き始めると、そう簡単に動作を止められません。

 じらされた相手が焦って
打とうとして飛び込んでくる手元や
油断して不用意に前に出てきた出頭
または相手が嫌がって避ける動作の
始まる所を打つのです。

 三つの技の尽きたところというのは、
相手の動作が完全に終わったところです。
次の動作に掛かる間を攻撃します。

 相手が息切れして止まったところや
相手の技をいなしたりかわしたり
やりすごしたりした後の攻撃がそうです。

 以上、三つの異なるタイミングですが
どれも相手の動きに素早く対応しなければならないので
反射神経と動体視力の問題だと思いがちですが、
実はその場で反応するだけでは
どれも間に合わないのです。

 剣道の勝ちは相手をどう動かすか
相手をどう嵌めるかという点にあります。
つまり、相手の動作を引き出す為に
自分が何かをしなければならないということです。

 つまりは、自分の狙ったとおりに相手が動くように
持って行くところから始まります。

 しかし、その時、相手が戸惑うか、
困って強引に出てくるかで
一気に勝負に出て来るか、
それぞれ相手よって反応が違い
したがってまた対応が違うので
それは自分の経験がモノを言います。
つまり稽古量です。

 相手を惑わすには、相手の挑発に乗らず
しかも、いつでも動けるところを見せながら
圧力をかけなければなりません。

 本当に上手な人や、経験豊かな先生方は
確実に相手を動かず自分の得意な
距離や攻め方があります。
相手は、来るのがわかっていても、つい反応してしまったり
またその裏をかかれたりします。

 良く相手を観察しながら
なおかつ責める気持ちを失わなず
いつでも打突に移れる体勢を
とり続けるのは、簡単ではありません。

 だから、多くの練習と経験が必要なのです。

第42回 スポーツと武道

 剣道はスポーツかスポーツではない武道か。
これまでも散々語りつくされた議論です。

 振興のためにはルールの明確化と簡略化をして
オリンピックの参加を目指すべきだ。
これがいわゆるスポーツ化賛成派の意見です。

 また、反対派は日本古来の日本刀の修練という
意味が失われてしまう、勝負に重きを置きすぎると
精神性が失われてしまうという理由がほとんどです。

 また、本来は相手を倒す為の訓練であったので
元々、楽しむ為のスポーツとしての要素を含むべきではない
とおっしゃる方もいます。

 色々な意見をお持ちの方がいらっしゃるのを踏まえて
私なりの意見を述べさせて頂きたいと思います。

 現代のアマチュアスポーツはレクリエーションです。
すると広義の意味では、剣道もこの中に入ります。

礼儀やマナーは剣道で最も大切なものと言われていますが
ほかのスポーツ、球技にしても格闘技にしても
ちゃんと礼儀やマナーはあります。
いわゆる「スポーツマンシップ」「フェアプレイ」と
呼ばれるものです。

 ですから教育的側面からも球技などのスポーツと
剣道は起源の違いはあれども、共に青少年育成の為の
活動の一環として行われています。

 確かに伝統文化の維持継承という点では
剣道は他と比べて突出しているかもしれません。
しかし、今や剣の道を志すのは日本人だけではありません。
日本以外でも多くの国で剣道の稽古が行われています。

 では、何が違うのでしょう。

 技術向上の目的は、それがアマチュアであれ、プロであれ、
最終的には相手方のプレーヤーに勝つことです。

 もし、試合の技術を磨くだけなら、徹底的に試合に負けない為の
技術指導を受ければいいのです。
そして、それを教えてくれるのは主にスポーツコーチです。

 剣道では、コーチや監督と呼ばれる立場はあるものの、
普段、指導者は皆先生と呼ばれます。

 先生から教わるのは技術だけではありません。
剣士として、人としてどう在るか、どのような剣道をしてゆきたいか
剣道を通じて何を得て、どう生きて行きたいか

 それらを先生との稽古や会話を通じて考える機会を与えられます。
また、将来指導者になるためには自分がどうあるべきかを
先生方の一挙一動を通じて教わります。

 これが私がスポーツと武道の違いだと感じる点です。

 ですから、今度は仮にも先生と呼ばれる立場になったら
指導も大切ですが、まずは常に他の剣士の見本になるような
剣道をするように努力しなければなりません。
それは何よりも苦しい事だと思います。

 誰よりも試合で強くなっても
人に後ろ指をさされるような、卑怯な剣道であったり
それ以前に、人としての感謝に気持ちや
人をいたわる気持ちが無かったら
己の強さには何の意味があるでしょう。

 ですから、勝負に勝つことは大切ですが
それだけが剣道の価値ではないのです。

 ターゲットを上手に打ったかどうかよりも
心と心で競い合うことの大切さ。
人としての「心」を受け継いで行くことの大切さ。

 それこそが武道でもスポーツでも語りきれない
「剣道」の魅力の一つだと思うのです。