第38回 花は桜木

 桜の花は日本の国の花です。
「パース桜剣道クラブ」
そして後援会である
「紫桜会」
共に私たちの剣道クラブの名前にもなっています。

 前回は武士が華々しく散りゆく美しさに憧れて
桜の花を好んだという話をさせて頂きました。

 また、その清廉な潔さは明治から戦前にかけて
日本人の精神の象徴とされ国の花となりました。
当時の職業の花形であった
軍の階級章などに桜の花が使われるようになりました。
たとえば、旧陸軍の軍刀にも海軍の小刀にも
桜のデザインの金具がついています。
すばらしく見事なデザインです。
(海軍は桜と錨です。)

 しかし、侍の時代も含めて
戦いの歴史は常に悲しみの歴史です。
侍の「本懐を遂げる」というのは
命を捨てても名と家名を残すこと
つまり、戦死を前提とした戦いでした。

 先の大戦中は「同期の桜」という歌にもあるように
命をかけて祖国の家族や友や幼い命を守る為に
死に行く兵士の心意気の象徴でありましたので、
敗戦の後は多くの日本人がその悲しい記憶を
散り行く桜に重ね合わせたとことと思います。
残念ながら、現在でも軍国主義のモチーフと
誤解される事もあります。

 しかし、その散りゆく華々しさだけが
桜の美しさではないのです。

 サクラという名は「咲く」に由来するとも
また日本神話や古事記にも登場する
稲の神様である木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の
「サクヤ」を語源とするとも言われています。
春爛漫の頃に桜が咲くのは、稲の神様が一番初めにやってくる事、
つまり稲の種籾をまく準備をする時期を意味するとも言われています。

 そして、日本の子供達が学校に入学する時も、
新卒社員が社会人としての一歩を踏み出す時も、
華々しく迎えてくれるのが桜の花です。
現代の日本で生活する人にとっては
新しいスタートのイメージです。

 以前、光村出版の国語の教科書
(中学一年生だったと記憶しています)
に載っていた、桜の皮で染色をする方の話が
今も記憶に残っています。

 桜の花の咲く頃の桜の木の皮を剥いで
それで糸を染めると淡くきれいな桜色になるそうで
黒くてごつごつした皮でさえ
全てが桜色の花を咲かせるための桜色のエナジーで
はちきれそうだということに
中学生ながら関心した記憶があります。

 まさに、これが今の剣道クラブの子供達です。
これから、大きく大きく咲くために
どの子供も、そのあふれんばかりの力を
体と心一杯に溜めています。

 大きく花咲く日を夢見て、精一杯努力し、
そして、その花を次の世代にもつなげて欲しい。
そんな願いをクラブの名前に込めています。

第37回 武家好み

 今でも剣道の袋などに良く使われる
武家好みの模様があります。
一つは「菖蒲」
緑の地に白で細かい柄が入っています。
菖蒲は「尚武」「勝負」と同じ音だからです。

 そしてもう一つがトンボ。
トンボは勝ち虫と呼ばれました。
その前にしか飛び進まないところが
勇敢に突撃する侍の意地と重なりました。

 また、トンボは円を描いて同じ所に戻って来ます。
この身が滅びでも、魂は家族のところに
また再び帰って来られます様に
また生まれ変わっても
現世の縁を繋いで、同じ縁を持てます様に
という願いも込められていたといいます。

 他にも鷹や虎、唐獅子、馬、鹿は
その勇猛さや凛々しさ、
龍は力強さや竜神信仰
鯉はその生命力
また双方とも滝や空を上る事から
武士としての出世への
望みとして好まれました。

 桜は「人は武士、花は桜木」
と言われるように、
散り際のため息の出るような美しさが
「滅びの美学」を持った侍たちにとって
戦いの中で華々しく死んで行く
憧れの生き様の象徴とされました。

 ちなみに梅は松竹梅の梅で
単体での柄としては
どちらかと言えば女性の柄として好まれ
男物には桜ほどは多く見られません。
しかし、城の庭に梅園が多く見られたのは
梅干を作る為で、つまりは戦時下に備えて
食料自給を目的(もしくは心がけ)
としたものでした。

 竹は伸びる勢いから出世を願い、
松は常緑のその若々しさ、
鶴や亀は末永いお家の繁栄を願って使われました。
また動植物以外にも、剣や矢羽などが
デザインとして使われました。

 また、勇猛なところで、蝙蝠、蜘蛛、髑髏
など好んだ人もおりました。

 また、雲立涌、宝尽し、小柄伏蝶、菊などは
有職文様という、公家の調度品や衣装などに使われた模様であり
位の高い侍が好んだとも言われています。

 また、亀甲や市松などの幾何学系の整然とした
堅い感じの模様も好まれたようです。

 他にも建物や着物などにも「武家好み」
と呼ばれるいろいろな柄や様式があります。
調べてみるとなかなか面白いと思います。

第36回 残心(ざんしん)

 剣道では残心(ざんしん)という言葉があります。
残心は剣道にとってはとても重要な意味を持ちます。

 他のスポーツであれば、いわゆるフォロースルーで
インパクトの後の同じベクトルで作用点
(例えばボウリングであればで腕ですね)
が動きを止めずに直進する動作の事です。

 剣道の場合は打った後に、腕を伸ばして真っ直ぐ走りぬけ、
最後は相手に向かって構える動作の事をいいますが
これは動作だけのことではありません。

 残心はその文字の通り「心」を重要とします。
それは、気を抜かない、相手への集中を
切らないということの表れと
打った時に無心で打ったかどうかということの表れです。

 残心がうまく出来ていないケースの
一つ目の例は、打った直後に気合を続けずに
その場で止まってしまうというケースです。
それは大抵は技術が足りないか、稽古不足のどちらかです。

 お年を召された方や足が悪くて走り抜けれらない方の場合でも
気合をかけながら相手に打たせないよう
中心に構えてさっと間合いを切るか
グッと相手の喉下に竹刀をつけるかして
反撃の機会を与えない気持ちを示す事ができます。
動作にでませんが、これも立派な残心です。

 2番目は、打った後で相手に対して構えない(気を抜いてしまう)人。
打った直後に声も無く止まってしまうのは、
気合が足りないからです。
しっかりと気持ちで打ち切っていないからです。

 まさに料理の途中で止めてしまうようなものです。
恐る恐る作った仕上げの味付けのない料理が
フライパンの中におきっぱなしに
なっている状態を考えて下さい。

 3番目は打った直後に、打たれない様に
止まって身を守る動作をとったり、
打った直後に守る動作をするケースが見られます。

 これは、相手に打たれたくない
打たれずに相手を打ちたい
という気持ちが強いからです。

 試合では一瞬の攻防の中でそういうこともあるかもしれません。
動きの速い一流選手だと、素速い動きの中で
残心をとっている場合もあります。
しかし、稽古ではキチンと
残心をとる心がけを忘れてはなりません。。

 もしターゲットに竹刀を当てることだけが目的であれば
それは単なる「叩きっこ」で剣道ではありません。
竹刀が偶然当ったら、それで勝った勝ったと有頂天になる。
年齢に限らず、勝負に執着しすぎたり
剣の精神の未熟な人が良く陥る悪癖です。

 剣道のいいところの一つは「無心の打ち」です。
つまりは「潔さ」でもあります。
隙が無いのに打ちかかって、
返り討ちにあうのは、自分の技術不足として反省すべきですが
ここぞと言う時に自分の全てを出して打ち込む、
純粋に掛かる、自らの煩悩(怖い気持ち、負けたら嫌だと
思う気持ち)を捨てきった心での打ち込み。
これが大切な事だと思います。
たとえ当らずとも、こういう打ち込みは
剣道修行においては、とても評価されます。
(ただし、試合では評価されないこともありますが。)

 だから、普段からこういう稽古をしておくべきなのです。
そして、こういう稽古を重ねてこそ、
初めて試合で本当に打突の機会がめぐってきた時
自然に体が前に動くのだと思います。

 まずは誠心誠意の気持ちで、相手に掛かっているかどうかと
言うところと、次に最後まで相手に対する気持ち
つまり相手との縁が切れていないかどうかが、
最も大切なところです。

 読んで字のごとく「心を残す」のです。

 うまくかわして自分が打たれないように打つより
自分の剣先と心を動かさずに
相手がハッとなったところを打つ。
打たれる時も、心を動かすことなく潔く打たれる。
そしてお互いに存在を認めあう。

これが剣道の美学なのであり、そして、この美学こそが
「残心」なのです。まさに心で戦うことの証明です。

第35回 友達がいるのさ

 「交剣知愛」という言葉があります。
私は多くの剣道の友達に支えられてきました。

 もちろん、人間ですから誰とでも仲良くなることは難しいです。
わざと失礼な剣道をする人には「このやろう」と思う事だってあります。
あまりにも礼儀のない人にあきれてしまうこともあります。

 不思議な事に、人の性格はちゃーんと剣道に出るのです。
恐ろしいくらいに性格がわかります。

 でも、剣道が好きでまじめに取り組んでいる人とは
大抵剣道を通じて仲良くなります。
これは、単に趣味が同じだからということではありません。

 剣道は心の戦いです。
相手の動作の隙を盗む事はあっても
後ろからのだまし討ちはありません。
自分の全てを出して正々堂々とぶつかりあうのです。

 そして、勝っても負けても、それを
「ありがとうございました」
という気持ちで認め合う。
だからこそ、お互いに分かり合えるのだと思います。

 そして、そんな友達だからこそ、
相手よりもっと強くなりたい、自分の剣に磨きをかけたい。
次はもっと自分が強くなって、また一緒に戦いたい。
追い越されないように稽古をしたい。

 勝たなければいけない剣道もあります。
職業で剣道をされている方々はそうです。
若い人たちは人を押しのけても勝ちたい気持ちもあると思います。

 でも、そんな人たちでも剣道を続けていれば、剣道を愛する
気持で、年を重ねてくると、いつしかそれが人を愛し感謝する
そんな気持ちに変わっていくと信じています。

 私にとって剣道の友達は本当に宝物です。
普段は本気でひっぱたきあってますが
だからこそ本当に信頼できる友達です。

 たとえ離れ離れになっても、
いつか再び剣を交える日を楽しみにしながら
修行を続けることが出来るのです。

 段が上でも下でも、年が上でも下でも
相手に追い越されないように、相手に追いつけるように、
自分に負けないように日々稽古鍛錬する。

 鍛錬は辛いですが、剣の仲間と戦う為の努力は「楽しみ」
であります。だから、剣道は一人の修行ではないと思います。
いつも心には、同じ道を行く仲間がいるのです。

 周りの人たちをただただひたすら叩きのめして
一人で強くなることが剣道の楽しみではないのです。
相手がいるからこそ、稽古ができるのです。
本気で戦える友達だからこそ、
相手の為に助けてあげたい気持ちが起こるのです。

 これが交剣知愛だと思います。