223号「再生」

久しぶりにブログ更新です。
半年間、大きなイベントなどが続き、色々思う事はあっても、中々手が回らないというのが正直なところで、しばらくブログお休みしてました。

月に三回という予定で書いていましたが、仕事以外でプレッシャーの解消や義務の為に、何かをするのはやめようと決めたので、自分の気持ちに正直に、ブログはストップしました。今は少し気持ちに余裕ができたので、また剣道について書こうと思います。

ここ数年の間は、良い落ち着いた剣道をしよう、若い頃とは違う大人の剣道をしよう、とがんばってきました。でも、戦う事の本質を少し忘れてしまっていたのではないかと言う気もするのです。

何が正しいのかわかりません。でも、理想の剣道はやっぱり強い剣道です。やっぱり、悩みながら懸命にやってみて、その中で作り上げられていくもので、作ろうと思って出来るものではないのだと思います。

何段を目指すにしても、やはり自分自身を見つめる事が大切だと思います。先生が100人いれば、100通りの違うアドバイスがあります。中には正反対の事をおっしゃる先生方もいらっしゃいます。しかし、それも全て正解です。だから、稽古の中で、こだわる部分とこだわらない部分、色々と悩んで稽古をしていく中で、何か自分の形が出来てくる。それが次第に自分の剣道になって行くのではないでしょうか。

それには「どうやって勝つか」と「自分はどうあるべきか」、この二つが絶妙に自分の中でバランスが取れた時に、きっと自分自身でも、少し納得のできる剣道が出来るのではないかと思っています。そんな日が来るかなあ。

これまでとは違う気持で素振りをしていると、なんだか自分が再生していくような気がします。
だからと言って強くなった訳でも上手くなった訳でもありませんけどね。

第219号 「行く道、まだ半ば」

 人には若い時にしかできない事もあれば、若い時には見えない事もあります。この若いという意味は、実年齢の事だけではなく、その道における精神的な成熟さも含めてという事です。

 若い時は、肉体的な強さや、技の巧みさ、スピードを求めます。それは勝つことが目的だからです。負けてしまえば意味がない。勝つために強くなりたい。強くなりたいから稽古をする。それは決して悪い事ではありません。体を虐めるように鍛えて力をつけるのは若い時にしかできない事です。

 そして、体力もスピードも衰えた時、その時に何が見え、何を目指すかは一人一人違うと思います。でも、日々精進していれば、若い時や初級者や中級者だった時には見えなかった何かが必ず見えてくる。それが道における成熟なのではないでしょうか。

 強さにこだわるのは良い事だと思います。武道を修めるからには、何歳になっても強くなりたい。でも、どうやったら相手の隙をついて勝てるかばかり考えているのは、良い言い方をすれば若い、悪い言い方をすれば未熟なのだと思います。相手を圧倒すること以上に、相手を受け入れる事が出来始めたら、そして自分の強さを磨くこと以上に、自分の弱さを受け入れる事が出来始めたら、それこそが次の更なる高く険しい道への道しるべが見えたという事なのではないでしょうか。

 そこから先は、恩師や多くの友人や家族が見守り、時には背中を押し、手を引いてくれるはずです。ですから、あとは我慢強く一歩一歩踏みしめて登ってゆけば良いのだと思います。長い長い道のりなのですから。

第218号 継続に意味はあるか。

 「継続は力なり」という言葉があります。継続することで学ぶ事もたくさんありますが、ただ続けているだけでは技術の進歩はなく、上達に繋がらなければ、あまり多くの事は学べません。したがって、単に継続することそのものに対しては、休まず続けて努力をしたという価値はあると思いますが、その努力が上達に繋がらないのは、やはり残念です。

 物事を継続する中で常に色々と創意工夫し、たくさんの失敗を重ねながら続けることに意味があります。しかし、ある程度上達したからといって、慢心して稽古を怠ると、やはり加齢と共に技術力は低下します。正しいやり方、つまり年齢や体力合った色々なやり方で継続していくことが大切です。

 また、技術の習得と同時に、知識や素養も必要です。体を動かして技術を習得すると同時に、昔の事を研究したり、他の人たちと交流をして意見交換などをしたり、そして技術のみならず、考え方や人としての在り方などを考える機会を持つことです。なぜなら、技術が上達した人は、必然的に指導者としての立場になるからです。

 指導者は必ず「人としての精神的な成熟」を要求されます。ですから、指導者の立場になっても、技術と同時に人としての素養、言い換えれば人間性を磨くために、更に努力し続けなければならないのです。自分が得てきたものを後進に教え伝える中で、自らが継続することの本当の価値を生かすことが出来るのはないでしょうか。

第212号「道がつくもの」

 武道、書道、華道、茶道、なんでも「道」という字が付くものは、長い時間をかけて修練し、心と技を磨くものです。一朝一夕にできるものではありません。

 しかし、大切なことは、その今の自分のレベルで楽しむことです。例えば、初段には初段の剣道、五段には五段の剣道、七段には七段の剣道があります。でも、初段の人が最初から八段の剣道を目指して悩むよりも、まずは初段で必要な事がしっかりとできるようになって、そのレベルでの充実を心掛けながら、少しずつ上を目指す方が、もっと楽しいと思います。

 言い換えれば、八段の剣道は、初段ではわからなくてもいい。今出来る事を思いっきり楽しめばいいんです。そして、もっと上手くなりたいと、悩みあれこれ工夫をしながらずっと続けていれば、いつかわかるようになるはずです。いや、八段にならなくても、時にはそれ以上価値のある、何かが見えるはずです。

 だから、今はそのために努力をする。いつか本当にわかった時の喜びは、今感じる喜びよりも、ずっと大きいはずです。長い道のリなんですから、楽しんで進んでいかないとね。きつい稽古も、技や体力の悩みも、過ぎてみれば、その全てが自分の進む道を、固く築き上げていくのですから。

第206号「コツコツとコツ」

 「コツ」という言葉があります。辞書によれば、コツの語源は、漢語「骨(こつ)」で、 骨は体の中心にあり、体を支える役目を果たしていることから、人間の本質や素質などを意味するようになったそうです。そして、コツは勘所や要領も意味するようになり、物事の本質を見抜き、自分のものにすることを「コツをつかむ」と言うようになったそうです。

 さて、竹刀を握るコツはなんですかと聞かれた時には、私なら「ふわっと握ってきゅっと絞める」と言うのですが、この「ふわっと」と言うのが実はとても具体的に説明しにくい。具体的な要領を書こうとするなら「人差し指は力を入れずに添え、中指と親指で輪を作って竹刀を支え、手の腹を竹刀を当てて小指全体でちょっとだけ絞める。」となりますが、この時に、ただ指の力を抜くのでもなく、かといってぐっと握るのでもなく。隙間が空かないように、でも遊びがあるように持つ。なんとも矛盾した表現かもしれませんが、これがコツと言えばコツなのでないかなと思います。勘所とも言うだけあって、実はコツとは言葉でなかなか説明出来ないものなのかもしれません。

 例えば、よく内側に絞るように竹刀を握りこむ人がいます。私個人の考えでは、内側に絞るのは大切なんですが、やりすぎると手首の動きを制限してしまう事になりますし、そもそも手首は親指方向の可動域は大きくないので、刃筋関係なく素早く当てるような竹刀の振り方であればいいのですが、この握りでしっかり振るようにすると、手首を痛めてしまうことがあります。やはり、手首は技を返す時にはよく使いますが、まずは手の内の作用が大切だと思います。でも、これも先生によって色々違ったりもするので、しかも言い方は違うのに最終的には同じことをやっていたりと、中々難しい所もありますが、まずは色々と真似してみて、工夫しながら自分に合うやり方を見つけられれば良いと思います。

 竹刀の握り方の一番の稽古は、やはり素振りです。ふわっと持ちながらも、やはり手先ではなく全身を使って打つような気持ちで、最後は刃筋がしっかり立って残心を意識しながら素振りをするのが良いと思います。以前は、ああした方がいいんじゃないか、こうした方がいいんじゃないかと色々試していましたが、何百万本も素振りをするうちに、ここじゃないかなという所が自然に身についたというところでしょうか。何百万本もと言えば多く聞こえるかもしれませんが、一日千本振ったとすれば十日で一万本、百日で百万本です。例え三日に一日素振りをするにしても一年でこれくらいにはなるのですから、何年も続ければ自ずからコツはつかめてくるはずです。

 帯の締め具合、大工道具の力加減、包丁の使い方、なんでもコツコツとやりこんでいるうちにコツと言うものがつかめるのではないかと思いますが、その為には常に考え、工夫し、先達の真似をしながら修業していくことが肝心でしょう。

 ちなみに「コツコツと」のコツコツは、正直に言えばネットで検索したところ「矻矻」または「兀兀」とも書くそうで、この矻という漢字の意味は「極めて苦労する、休むことなく勤勉に働く」という意味だそうです。中国の前漢(紀元前206年頃)の文人、王褒傳による作品の中に「勞筋苦骨,終日矻矻」(体を使い骨まで苦しい思いをしながら、一日中休むことなく働く)という言葉が出てくるように、昔から中国で使われていた言葉の様です。一方、兀と言うのは上が削られた山を形にした字で、高くそびえる、突出したという意味ですが、唐の詩人、韓愈の「進学解」という書の中で、「焚膏油以繼晷,恆兀兀以窮年」 (油に火を灯し昼夜なく読書を続け、常にコツコツと年を送る) てというように「突出=孤高=一人黙々と」というように使われている場合もあるので、これはどちらも同じ意味なのだと思います。(しかし、中国語での発音が矻矻「kù kù」、兀兀は「wù wù」。これがなぜコツコツになったのかはわかりません。)

 一生懸命努力を続ける。これこそがコツコツとの意味であり、コツを掴むための遠回りな一番の近道なのです。